2011年09月20日

市議会選挙に思う

騒々しい選挙戦が終わった。
絶好の昼寝どき、大音量にさんざん悩まされたものだ。

あの選挙カーでわめき回る運動は、はたして効果があるのだろうか?
名前と「がんばります」「お願いします」の連呼ばかりで、政策なんて何も伝わってこない。
私など、あまりうるさい奴は、それだけで入れたくなくなる。

昔、小さな町(〇〇郡✕✕町)に住んでいた頃、
隣の集落から新人(若くはないが...)が町議選に立候補したことがある。
私がいた集落は小規模で神社もなかったので、祭りや老人会など、
そのムラと行動を共にすることが多かった。
その候補者自身のこともよく知っていたし、お世話になったこともある。
立候補したからには、受かってくれればいいなとは思っていた。
気楽に構えていたのだが...。

ほどなく、田舎特有の選挙合戦に巻き込まれることになる。
まずは壮行会のお知らせ。
続けざまに、各人の役割分担表が回ってきた。
知らない間に「広報班」に振り分けられている。
なんだこれ?
...そんなこと一言も聞いてないぞ!

自分たちの地区から立候補者が出たら、心情的に応援しようという気はわかる。
ただ、その人物に投票するか否かは別問題である。

わがムラから議員さんが出れば、ムラの公共問題に予算が回ってくる、
自分たちの地区が少しでもよくなる...。
そんな気持ちの人が、田舎であればあるほど多いのが実情だろう。

だが、そんな「せこい」考え方で町会議員を選ぶべきではない。
その頃、町は「平成の大合併」問題にどう対応するか、方向性が問われていた(結局吸収合併された)。
自分のムラのことより町全体のことを優先して考えられる人こそ、議員にふさわしいのではないか...。

結局、私はその選挙に一切協力しなかった。
壮行会だけは出て、候補写本に人直接考えを伝えた。
個人としては応援するが、ムラぐるみの選挙戦には協力できかねると...。
快く了承してもらい、あとは大家さんにだけ意見を話し、
その他大勢には仕事の忙しさを理由にごました。

最終的には私もその人に投票し、無事当選した。
祝賀会にはもちろん出席しなかったが...。

今のムラでも、地区から候補者が出れば同じような展開になるだろう。
密かにそれを恐れている。
街から近いのにムラ意識が強く残るここでは、
前のようにすんなり受け流すわけには行かないかも知れない。

誰に投票するかは、いつも選挙公報を見て決める。
今回もじっくり読んでみたのだが...。

皆同じようなことばかり書いていて、伝わってくるものがない。
万人受けを狙ってあれもこれもと詰め込んでいるので、
この人に!という決め手がないのだ。
これでは、誰々さんに頼まれたからとか、地元の人だからという理由で入れるしかない。
投票率が過去最低の46%に留まったのも頷けるというものだ。

相も変わらぬ地盤、看板、カバン頼みの選挙戦...。
主義・主張や公約で争うという理想が実現するのは、特に地方議会の選挙では、当分難しいようである。








                 ※画像は松代の山寺常山邸。  


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:43Comments(2)よしなしごと

2011年09月06日

熟成を待つ

先日新聞に、長野県家庭教師協会のチラシが入ってきた。
いわく、普通の個別指導塾では自習の時間が多いが、
家庭教師なら先生を独り占めできてたくさん教えてもらえるetc....。

これを読んで、やはり家庭教師は高いだけのことはあると思う人も少なくないだろう。
だが、はたしてこれは、生徒の力を育むための理想の指導なのだろうか?
教えれば教えるほど、子どもは伸びるのだろうか...?

答はNoである。
たくさん教えてくれる先生、わからなかったらすぐに教えてくれるのが
いい先生というのは大きな誤解だ。
平均レベルの高校には入れればいい、合格さえすれば高校でつまずいても構わないということなら、
ひたすら教え込めばどうにかなるかも知れない。
しかし、それ以上の力を子どもにつけさせたいのであれば、この方法では限界がある。
少しわからないとすぐに解き方を教わろうとするようでは、
これから先の長い人生、壁にぶつかるたびに挫折することになりかねない。

子どもたちには、自分の頭で考える時間が不可欠である。
教わったことを咀嚼し、消化する時間が絶対に必要なのだ。
意味もわからずただ丸暗記するだけでは、すぐに忘れるし応用が利かない。
新たに得た知識を自分なりに納得し、腑に落ちるまで考えぬく体験を積むことは、
必ずや将来の糧となることだろう。

次から次へ教え込んでいては熟成の時間が取れない。
あえて全部を教えず、ヒントを出したり自分で調べさせたり...。
自分で考えることを促し、生徒の思考を邪魔しない、
必要があればその子の思考に沿った的確なアドバイスを与える...。
そんな指導こそが真の理想型ではないだろうか...。

私も経験があるのだが、家庭教師という形態はどうしても教えすぎてしまう傾向にある。
高いお金をもらっているのだからという意識も働くし、何より1対1だと暇なのだ。
親がお茶でも持って来ようものなら、ここぞとばかり熱心さをアピールして教え込んだり...。
生徒は一方的に教えられるだけで、自分で考える余地はほとんどない。
ちょっと考えてわからなかったら、訊けばすぐ教えてくれるのだから...。
結果として、困ったら人に頼ればいいという受け身の人間を生産することになってしまう。

これは、親がわが子に教える場合にも少なからず共通することだと言えよう。
自分も含め、わが子に対してはどうしても教えたくなってしまう...。
イライラが先に立って、ゆとりを持って接することができないのだ。

勉強に限らず、大人が子どもに何かを身につけさせようとすると、
つい先回りして教え込みたくなるものである。

その方が手っ取り早いのだ。
しかし、上述したように、それでは子どもは成長しない。
教えすぎない我慢、内なる熟成を待つ忍耐こそが肝要である。
親には、子どもの可能性を信じて長い目で見守っていただくようお願いしている。






  


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:02Comments(2)よしなしごと