2010年08月17日
幸福の定義
イソップ寓話に「町のねずみと田舎のねずみ」という話がある。
ご存知の方も多かろう。
町のねずみが田舎のねずみの家を訪ねる。
ところが、堅い木の実の食事や葉っぱの布団、静かすぎる環境が我慢できない。
町はもっと刺激的で素敵だと、田舎のねずみを誘う。
田舎のねずみが町へ行ってみると、
見たこともない御馳走がいっぱいある。
初めは少し羨ましかったが、
人間や猫の気配にびくびくしながらの生活はごめんだと思う。
田舎に帰ったねずみは、質素でものんびりできる暮らしがいいと実感する。
こんな内容だった。
都会暮らしと田舎暮らしの例えに、ときどき使われる話だ。
私は田舎暮らしがしたくて信州に来た。
新しさや便利さよりも、広さや自然環境を重視して山の方に住んでいる。
当然「田舎のねずみ」派だ。
お盆に千葉の実家に帰って、改めて感じたことがある。
81歳の母、この人はかなり「町のねずみ」派だということだ。
好奇心旺盛で、どこでも一人で出かけて行く。
だからこそ気持ちが若いのだろうし、
運転ができない身では田舎暮らしは大変だろう。
便利な今の住み家を離れるつもりはないようだ。
母は一人暮らしなので、防犯には気を使っている。
以前裏の家に強盗が押し入ったことがあり、セコムも取り付けた。
夜は真夏でも雨戸を閉め切り、エアコンで暑さを凌ぐ。
私が泊まった13日は珍しく涼しい夜だったので、
「窓を開けたままでいいのでは?」と提案したが、「田舎と違って物騒だから」と却下された。
東京から帰って来て、新幹線を降りたとたんホッとした。
やっぱり涼しい!
同じ気温でも暑さの質が違う。
夜、自然の風を感じながら眠ることができる幸せを痛感した。
今読んでいる本(加賀乙彦「不幸な国の幸福論」)にこんな一言があった。
「幸福を定義してはいけない」
何が幸せかは、母と私の例を見るまでもなく、人それぞれ違って当然である。
誰かの、あるいは世間一般の幸福論に振り回される必要はない。
自分なりの幸福論を持つべきだ。
だが、自分が考える幸せの定義にも、とらわれ過ぎてはいけないということだ。
定義を明確にしてしまうと、仮に今の自分が理想的な幸福でも、
外的環境が少し変わっただけで不幸になる危険がある。
どうしても、マイナス面に目が向いてしまうのだ。
自分の力で変えられないものはありのままを受け入れ、
その時々で流動的に幸福の定義を変えられる柔軟さを持ちたい。
母はこの辺り、実にしたたかに賢く対処し、人生を楽しんでいるのかも知れない...。

※庭のサルスベリ、予想外のボリュームです。
ご存知の方も多かろう。
町のねずみが田舎のねずみの家を訪ねる。
ところが、堅い木の実の食事や葉っぱの布団、静かすぎる環境が我慢できない。
町はもっと刺激的で素敵だと、田舎のねずみを誘う。
田舎のねずみが町へ行ってみると、
見たこともない御馳走がいっぱいある。
初めは少し羨ましかったが、
人間や猫の気配にびくびくしながらの生活はごめんだと思う。
田舎に帰ったねずみは、質素でものんびりできる暮らしがいいと実感する。
こんな内容だった。
都会暮らしと田舎暮らしの例えに、ときどき使われる話だ。
私は田舎暮らしがしたくて信州に来た。
新しさや便利さよりも、広さや自然環境を重視して山の方に住んでいる。
当然「田舎のねずみ」派だ。
お盆に千葉の実家に帰って、改めて感じたことがある。
81歳の母、この人はかなり「町のねずみ」派だということだ。
好奇心旺盛で、どこでも一人で出かけて行く。
だからこそ気持ちが若いのだろうし、
運転ができない身では田舎暮らしは大変だろう。
便利な今の住み家を離れるつもりはないようだ。
母は一人暮らしなので、防犯には気を使っている。
以前裏の家に強盗が押し入ったことがあり、セコムも取り付けた。
夜は真夏でも雨戸を閉め切り、エアコンで暑さを凌ぐ。
私が泊まった13日は珍しく涼しい夜だったので、
「窓を開けたままでいいのでは?」と提案したが、「田舎と違って物騒だから」と却下された。
東京から帰って来て、新幹線を降りたとたんホッとした。
やっぱり涼しい!
同じ気温でも暑さの質が違う。
夜、自然の風を感じながら眠ることができる幸せを痛感した。
今読んでいる本(加賀乙彦「不幸な国の幸福論」)にこんな一言があった。
「幸福を定義してはいけない」
何が幸せかは、母と私の例を見るまでもなく、人それぞれ違って当然である。
誰かの、あるいは世間一般の幸福論に振り回される必要はない。
自分なりの幸福論を持つべきだ。
だが、自分が考える幸せの定義にも、とらわれ過ぎてはいけないということだ。
定義を明確にしてしまうと、仮に今の自分が理想的な幸福でも、
外的環境が少し変わっただけで不幸になる危険がある。
どうしても、マイナス面に目が向いてしまうのだ。
自分の力で変えられないものはありのままを受け入れ、
その時々で流動的に幸福の定義を変えられる柔軟さを持ちたい。
母はこの辺り、実にしたたかに賢く対処し、人生を楽しんでいるのかも知れない...。

※庭のサルスベリ、予想外のボリュームです。
2010年08月09日
本を譲ってください!
松代には図書館がない。
2週間に一度、「移動図書館」という名の車が回ってくるだけだ。
そもそも、長野市に図書館が3ヶ所(市立2+県立1)しかないのが少なすぎる。
人口40万人に迫ろうかという「中核市」にしてはお粗末ではないか。
千葉県袖ヶ浦市(人口6万)には5つの図書館があり、
市民はどこに住んでいても車で5分以内で本を借りに行けるそうだ。
以前住んでいた信州新町でも、松代に来てからも、
妻と2人で事あるごとに「図書館がほしい」という話をしてきたが、
行政も住民自身も関心は薄い。
松代には本屋もない。
私が今塾として借りている所が、昔書店だったそうだ。
一時は近くに支店も出していたようだが、
今では気軽にふらっと寄れる「町の本屋さん」はなくなってしまった。
まあ、これはどこでも同様の状況だろうが...。
私も妻も、子どもたちも、みな本は好きだ。
塾を始めてからも読解力、要約力、言語力などの育成に力を入れてきた。
塾には教材や参考書以外にも、子ども向けから大人対象の本、
果ては英語の絵本やペーパーバックまで、多種多様な本がある。
私が読み終わった本は、自動的に塾の本棚に並ぶ仕組みだ。
「塾の価値は蔵書の数で決まる」というのが持論でもある。
さて、松代だ。
行政に期待しても無理なら、自分たちで始めることにした。
松代の教室は2部屋に分かれている。
今のところ奥の部屋で授業を行っているので、
入口に近い方は「前室」扱いで机と椅子があるだけだ。
ここを図書スペースにしようと考えたのだ。
貸し出しや、ものによっては超安価での販売もしたい。
読み聞かせや朗読の場としても活用できる。
これを、思考力と言語力を育てるNPO設立の足がかりにしたいと思う。
「週刊長野」で本の寄付を呼びかけたら、
さっそく川中島から持って来てくれるという人が現れた。
嬉しい限りである。
本のジャンルは問いません。
松代まで持ち込み可能な方、あるいは送っていただける方、ご協力をお願いします!
近くで大量なら取りに伺います。

2週間に一度、「移動図書館」という名の車が回ってくるだけだ。
そもそも、長野市に図書館が3ヶ所(市立2+県立1)しかないのが少なすぎる。
人口40万人に迫ろうかという「中核市」にしてはお粗末ではないか。
千葉県袖ヶ浦市(人口6万)には5つの図書館があり、
市民はどこに住んでいても車で5分以内で本を借りに行けるそうだ。
以前住んでいた信州新町でも、松代に来てからも、
妻と2人で事あるごとに「図書館がほしい」という話をしてきたが、
行政も住民自身も関心は薄い。
松代には本屋もない。
私が今塾として借りている所が、昔書店だったそうだ。
一時は近くに支店も出していたようだが、
今では気軽にふらっと寄れる「町の本屋さん」はなくなってしまった。
まあ、これはどこでも同様の状況だろうが...。
私も妻も、子どもたちも、みな本は好きだ。
塾を始めてからも読解力、要約力、言語力などの育成に力を入れてきた。
塾には教材や参考書以外にも、子ども向けから大人対象の本、
果ては英語の絵本やペーパーバックまで、多種多様な本がある。
私が読み終わった本は、自動的に塾の本棚に並ぶ仕組みだ。
「塾の価値は蔵書の数で決まる」というのが持論でもある。
さて、松代だ。
行政に期待しても無理なら、自分たちで始めることにした。
松代の教室は2部屋に分かれている。
今のところ奥の部屋で授業を行っているので、
入口に近い方は「前室」扱いで机と椅子があるだけだ。
ここを図書スペースにしようと考えたのだ。
貸し出しや、ものによっては超安価での販売もしたい。
読み聞かせや朗読の場としても活用できる。
これを、思考力と言語力を育てるNPO設立の足がかりにしたいと思う。
「週刊長野」で本の寄付を呼びかけたら、
さっそく川中島から持って来てくれるという人が現れた。
嬉しい限りである。
本のジャンルは問いません。
松代まで持ち込み可能な方、あるいは送っていただける方、ご協力をお願いします!
近くで大量なら取りに伺います。

2010年08月08日
不吉な鳥?
先月からずっと、夜になると奇妙な音が聞こえる。
「ヒー」で上がって、「ヒョー」で下がる。
口笛のような高い音だ。
細くてどこかもの悲しい感じが漂う...。
まさか鳥だとは思わなかった。
トラツグミという名だそうだ。
昔からその不気味な鳴き声が、不吉の前兆とされてきたらしい。
かつては「鵺(ヌエ)」と呼ばれていた。
源頼政の「ヌエ退治」で有名な架空の化け物は、
この鳥の声から想像されたものだという...。
トラツグミに関するいろいろなサイトを読んでいたら、
その鳴き声をうまくたとえている人がいた。
「誰かがブランコを漕いでいるのかと思った」
そう、まさにそんな感じだ。
深夜の公園で、少しだけ錆び付いたブランコが揺れているような...。
人の姿は見えないのに、ブランコだけが揺れているというイメージがぴったりかも知れない...。
いずれにせよ、私にはそんなに不気味にも聞こえない。
不吉だとも思わない。
むしろ閑かさを増してくれる声である。
これも自然が豊かなことの証だと思って、夜を楽しみたい。

「ヒー」で上がって、「ヒョー」で下がる。
口笛のような高い音だ。
細くてどこかもの悲しい感じが漂う...。
まさか鳥だとは思わなかった。
トラツグミという名だそうだ。
昔からその不気味な鳴き声が、不吉の前兆とされてきたらしい。
かつては「鵺(ヌエ)」と呼ばれていた。
源頼政の「ヌエ退治」で有名な架空の化け物は、
この鳥の声から想像されたものだという...。
トラツグミに関するいろいろなサイトを読んでいたら、
その鳴き声をうまくたとえている人がいた。
「誰かがブランコを漕いでいるのかと思った」
そう、まさにそんな感じだ。
深夜の公園で、少しだけ錆び付いたブランコが揺れているような...。
人の姿は見えないのに、ブランコだけが揺れているというイメージがぴったりかも知れない...。
いずれにせよ、私にはそんなに不気味にも聞こえない。
不吉だとも思わない。
むしろ閑かさを増してくれる声である。
これも自然が豊かなことの証だと思って、夜を楽しみたい。

2010年08月04日
何様のつもりだ!
わが家は松代の街中から3㎞ほど。
車ならすぐの距離だが、山が迫り川沿いでもあるので、道が狭い。
対向車とすれ違いができない箇所も多い。
さすがに越してきて3年を過ぎた今では、どこで対向車をやり過ごせばいいのか、
随所に待避場所を見つけてあるので、まず鉢合わせになることはない。
お互いに譲り合ってなかなかすれ違えないこともあるが、それはまあご愛敬。
腹が立つのは、こちらが譲って待っているのに、すれ違う際何のあいさつも返さない輩だ。
自分が優先なのが当たり前だと思っているのか...。
こういうのは、若者やおばさんもいるが、圧倒的におじさん(じいさんも含む)が多い。
おそらく、会社では高い地位にいる(or いた)のだろう。
社内での立場が、そのまま社外でも通用すると思っている大馬鹿者だ。
いつかは、かなり手前から待っていたのに、
携帯に夢中でこちらに一瞥もくれることなく通過していった。
「なんだ、この野郎!」と叫んだのは言うまでもない。
昨日、今日とまた腹が立った。
今は夏期講習の最中なので、朝9時頃に家を出る。
すると、2日続けて同じ車と、同じような所ですれ違った。
大きめのバンだ。
昨日も今日も、私の方が道を譲って待っていた。
ところが運転席のおばさん、何のあいさつも返さない。
昨日は、こちらが気がつく前に会釈でもしたのだろうといい方に解釈したが、
今日ははっきり見ていた。
同乗者と談笑しながら、こちらを見もしない...。
何様のつもりだ!!
車体に会社の名前がくっきりと書いてあった。
「ニ○○」という、老人ホームや介護の大手の会社だ。
そんな仕事に携わっている職員があの態度では、
サービスの内容も推して知るべしではなかろうか...。
明日もう一度チャンスがある。
また無視するようなら、会社にクレームのメールを入れようと思っている。

車ならすぐの距離だが、山が迫り川沿いでもあるので、道が狭い。
対向車とすれ違いができない箇所も多い。
さすがに越してきて3年を過ぎた今では、どこで対向車をやり過ごせばいいのか、
随所に待避場所を見つけてあるので、まず鉢合わせになることはない。
お互いに譲り合ってなかなかすれ違えないこともあるが、それはまあご愛敬。
腹が立つのは、こちらが譲って待っているのに、すれ違う際何のあいさつも返さない輩だ。
自分が優先なのが当たり前だと思っているのか...。
こういうのは、若者やおばさんもいるが、圧倒的におじさん(じいさんも含む)が多い。
おそらく、会社では高い地位にいる(or いた)のだろう。
社内での立場が、そのまま社外でも通用すると思っている大馬鹿者だ。
いつかは、かなり手前から待っていたのに、
携帯に夢中でこちらに一瞥もくれることなく通過していった。
「なんだ、この野郎!」と叫んだのは言うまでもない。
昨日、今日とまた腹が立った。
今は夏期講習の最中なので、朝9時頃に家を出る。
すると、2日続けて同じ車と、同じような所ですれ違った。
大きめのバンだ。
昨日も今日も、私の方が道を譲って待っていた。
ところが運転席のおばさん、何のあいさつも返さない。
昨日は、こちらが気がつく前に会釈でもしたのだろうといい方に解釈したが、
今日ははっきり見ていた。
同乗者と談笑しながら、こちらを見もしない...。
何様のつもりだ!!
車体に会社の名前がくっきりと書いてあった。
「ニ○○」という、老人ホームや介護の大手の会社だ。
そんな仕事に携わっている職員があの態度では、
サービスの内容も推して知るべしではなかろうか...。
明日もう一度チャンスがある。
また無視するようなら、会社にクレームのメールを入れようと思っている。

2010年08月02日
3年間で退化した?
今年から抽出方式に変わった「全国学力テスト」の結果が公表された。
一昨日の信毎では、1面に「県内中学全国下回る」という見出しが躍っていた。
小学校はそこそこ健闘したようだが、中学は国語A・B、数学A・Bすべてで全国平均を下回り、
都道府県別の順位はどれも40位前後だったとのこと。
まあ、いつも上位にいる都道府県は、それなりの対策をして臨んでいるのかも知れないし、
順位に一喜一憂することもないと思う。
それよりも、「やっぱりな...」と思わされたのが、朝日新聞の記事である。
4年目の実施となる今回は、「比較問題」というのがあったそうだ。
初回の2007年、小6で受けたものと類似する問題を、今回中3に出したのだ。
3年間でどれだけ理解が進んだかを調べる目的だという。
一例として挙げられていたのが円の面積だ。
今回、中3の問題の中に円柱の体積を求めるものがあったが、
その正答率は43.2%だった。
全体の正答率が66.1%だったのに比べるとかなり低い。
これだけでも困ったものだが、さらに注目すべきデータがあったのだ。
どこにミスがあったのかを分析した結果、
底面積を出す時点で間違えている生徒が11.9%いたというのだ。
3年前には単純に円の面積を求める問題だったが、そのときの間違いは9.3%。
つまり単純比較では、3年を経て定着するどころか、
逆にできない子が2.6ポイント増えているという結果になったのである。
円周や円の面積は、わかっていない子が本当に多い。
中学で数学が苦手な子は、かなりの割合でここがいい加減だと言っていい。
円がわからなければ、おうぎ形の面積や弧の長さなど、何をか言わんやである。
円錐の表面積など、まったくお手上げになってしまう...。
そもそも、「円周率」とは何なのか、聞いてみると満足に答えられない。
「何の何に対する率なの?」と問いかけてもわからない。
少し噛みくだいて、「率なんだから割合だ。何と何が1:3.14なの?」と聞いても、
「円の、円周に対する割合」などとわけのわからない答しか返ってこない。
円周の出し方(直径×π)と円の面積の出し方(半径×半径×π)を混同している例も多い。
単位もcm と㎠ の使い分けができていない。
面積は長さを2回掛けるからcmの2乗になるという原理がわかっていれば、
「半径×半径...」が円周になるわけないと気づくはずなのだが...。
原理や理屈をないがしろにしたまま、公式だけを覚えさせてきたのではないか。
生徒の側が安易に公式を覚えたがるという側面も否定しないが、
そうだとしても、そうなるにはどこかで
「こうやればラクだよ」的な指導が成されていたと考えざるを得ない。
円の面積がなぜ「半径×半径×3.14」で出るのかは、
小学校の教科書にもちゃんと説明が載っている。
あれを現場で、どれだけ時間をかけて理解させているのだろう。
どんな円も直径の約3倍が円周になっていることを、
実験を交えて体で納得させる授業は行われているのだろうか...。
中学生に、黙って小学5年生の教科書を手渡す度に、ついため息が出てしまうのだ...。

一昨日の信毎では、1面に「県内中学全国下回る」という見出しが躍っていた。
小学校はそこそこ健闘したようだが、中学は国語A・B、数学A・Bすべてで全国平均を下回り、
都道府県別の順位はどれも40位前後だったとのこと。
まあ、いつも上位にいる都道府県は、それなりの対策をして臨んでいるのかも知れないし、
順位に一喜一憂することもないと思う。
それよりも、「やっぱりな...」と思わされたのが、朝日新聞の記事である。
4年目の実施となる今回は、「比較問題」というのがあったそうだ。
初回の2007年、小6で受けたものと類似する問題を、今回中3に出したのだ。
3年間でどれだけ理解が進んだかを調べる目的だという。
一例として挙げられていたのが円の面積だ。
今回、中3の問題の中に円柱の体積を求めるものがあったが、
その正答率は43.2%だった。
全体の正答率が66.1%だったのに比べるとかなり低い。
これだけでも困ったものだが、さらに注目すべきデータがあったのだ。
どこにミスがあったのかを分析した結果、
底面積を出す時点で間違えている生徒が11.9%いたというのだ。
3年前には単純に円の面積を求める問題だったが、そのときの間違いは9.3%。
つまり単純比較では、3年を経て定着するどころか、
逆にできない子が2.6ポイント増えているという結果になったのである。
円周や円の面積は、わかっていない子が本当に多い。
中学で数学が苦手な子は、かなりの割合でここがいい加減だと言っていい。
円がわからなければ、おうぎ形の面積や弧の長さなど、何をか言わんやである。
円錐の表面積など、まったくお手上げになってしまう...。
そもそも、「円周率」とは何なのか、聞いてみると満足に答えられない。
「何の何に対する率なの?」と問いかけてもわからない。
少し噛みくだいて、「率なんだから割合だ。何と何が1:3.14なの?」と聞いても、
「円の、円周に対する割合」などとわけのわからない答しか返ってこない。
円周の出し方(直径×π)と円の面積の出し方(半径×半径×π)を混同している例も多い。
単位もcm と㎠ の使い分けができていない。
面積は長さを2回掛けるからcmの2乗になるという原理がわかっていれば、
「半径×半径...」が円周になるわけないと気づくはずなのだが...。
原理や理屈をないがしろにしたまま、公式だけを覚えさせてきたのではないか。
生徒の側が安易に公式を覚えたがるという側面も否定しないが、
そうだとしても、そうなるにはどこかで
「こうやればラクだよ」的な指導が成されていたと考えざるを得ない。
円の面積がなぜ「半径×半径×3.14」で出るのかは、
小学校の教科書にもちゃんと説明が載っている。
あれを現場で、どれだけ時間をかけて理解させているのだろう。
どんな円も直径の約3倍が円周になっていることを、
実験を交えて体で納得させる授業は行われているのだろうか...。
中学生に、黙って小学5年生の教科書を手渡す度に、ついため息が出てしまうのだ...。

2010年07月31日
「シー」が言えない...
一昨日の記事で、「ディズニーランド」が「デズニーランド」になったり、
「ティファニー」が「テファニー」、
「ファール」が「ハール」になったりする例を書いていて思い出した。
今年高校生になった生徒に、不思議な発音の子がいたのだ。
今の子は、ほとんどが「she」と「see」の発音を区別できる。
カタカナで「シー」「スィー」と書いても、ちゃんと読んでくれる。
たまに「スィー」の発音ができない(「シー」になってしまう)生徒にもお目にかかったが、
まあ、そんな子もいるだろうと気にも留めなかった。
ところが、その子はまったく逆だったのだ。
「スィー」は言えるのに「シー」が発音できないのだ。
「静かに!」というときの「シー」だよと、アドバイスしても変わらない。
普通に日本語で言わせてみても、「新聞紙」が「スィンブンスィ」になってしまう。
実はその子の苗字にも「し」があったのだが、それもやはり「スィ」だった...。
「She is ~」を「スィー イズ」と読まれる度に、ものすごい違和感があった。
でも、彼としては精一杯区別をつけようとしてるのだ。
それ以上求めるわけにはいかない。
これはグローバル化に適応した進化なのか...。
とは言っても、「she」が「sea」になっては誤解を招くことも多かろう。
She is my mother. がSea is my mother. に聞こえるくらいなら、詩的でいいかも知れないが...。

「ティファニー」が「テファニー」、
「ファール」が「ハール」になったりする例を書いていて思い出した。
今年高校生になった生徒に、不思議な発音の子がいたのだ。
今の子は、ほとんどが「she」と「see」の発音を区別できる。
カタカナで「シー」「スィー」と書いても、ちゃんと読んでくれる。
たまに「スィー」の発音ができない(「シー」になってしまう)生徒にもお目にかかったが、
まあ、そんな子もいるだろうと気にも留めなかった。
ところが、その子はまったく逆だったのだ。
「スィー」は言えるのに「シー」が発音できないのだ。
「静かに!」というときの「シー」だよと、アドバイスしても変わらない。
普通に日本語で言わせてみても、「新聞紙」が「スィンブンスィ」になってしまう。
実はその子の苗字にも「し」があったのだが、それもやはり「スィ」だった...。
「She is ~」を「スィー イズ」と読まれる度に、ものすごい違和感があった。
でも、彼としては精一杯区別をつけようとしてるのだ。
それ以上求めるわけにはいかない。
これはグローバル化に適応した進化なのか...。
とは言っても、「she」が「sea」になっては誤解を招くことも多かろう。
She is my mother. がSea is my mother. に聞こえるくらいなら、詩的でいいかも知れないが...。

2010年07月28日
10円ぽっち...
Last Sundayの夜、都はるみの特集番組を観ていた。
「大阪しぐれ」「浪花恋しぐれ」「千年の古都」など好きな曲が多い。
先日記事にした盆踊りの定番ソング「好きになった人」ももちろん流れた。
彼女のデビュー曲が「困るのことヨ」という、B級演歌っぽいタイトルなのは知っていた。
今回の発見は、そのB面だった曲である。
レコードジャケットが映し出されたときにしっかり確認した。
「十円ぽっちでごめんなさい」
...思わず吹き出してしまった。
なんだ、コレ...?
さっそく検索するとYou tube にあった。歌詞も掲載されている。
曲調は「おひまなら来てね」(by 五月みどり)みたいだ...。
なるほど、呼び出したり思いを伝えたりするのに、
10円ぽっちしか使わないでごめんなさいという意味だったのか...。
10円の使い途は、1番から順に赤電話、郵便切手、バスの乗り越し賃となっている。
しかしすごい歌詞だ。
「会社なんかはほっといて」などど言う女性は、今の時代いないだろう。
「アラわるいわね」「ノサイサイ」と茶化されては、
「ごめんなさい」にも謝る気持ちなどまったく感じられない。
発売は1964年、東京オリンピックの年である。
10円の価値も今よりは高かっただろうが、それでも「ぽっち」扱いだ。
今のいくらくらいの感覚だったのであろうか...。
公衆電話は今でも10円だから参考にならない。
郵便料金で考えてみよう。
この歌ではラブレターだから、当然封書だろう。
当時6~7歳だった私の記憶では、封書が10円、ハガキが5円だった時代があるので合致する。
今は封書の料金は80円だ。
バスの乗り越し賃も考慮に入れると、
「10円ぽっち」は今の50~80円くらいだろうか...?
これを「ぽっち」と言えるかどうかは、意見の分かれるところだろう。
私の感覚では、やはり10円以下が「ぽっち」である。
36年前と同じということだ。
これからは、お賽銭をあげるときに心の中でつぶやくことにする。
5円ぽっちでごめんなさい...。

「大阪しぐれ」「浪花恋しぐれ」「千年の古都」など好きな曲が多い。
先日記事にした盆踊りの定番ソング「好きになった人」ももちろん流れた。
彼女のデビュー曲が「困るのことヨ」という、B級演歌っぽいタイトルなのは知っていた。
今回の発見は、そのB面だった曲である。
レコードジャケットが映し出されたときにしっかり確認した。
「十円ぽっちでごめんなさい」
...思わず吹き出してしまった。
なんだ、コレ...?
さっそく検索するとYou tube にあった。歌詞も掲載されている。
曲調は「おひまなら来てね」(by 五月みどり)みたいだ...。
なるほど、呼び出したり思いを伝えたりするのに、
10円ぽっちしか使わないでごめんなさいという意味だったのか...。
10円の使い途は、1番から順に赤電話、郵便切手、バスの乗り越し賃となっている。
しかしすごい歌詞だ。
「会社なんかはほっといて」などど言う女性は、今の時代いないだろう。
「アラわるいわね」「ノサイサイ」と茶化されては、
「ごめんなさい」にも謝る気持ちなどまったく感じられない。
発売は1964年、東京オリンピックの年である。
10円の価値も今よりは高かっただろうが、それでも「ぽっち」扱いだ。
今のいくらくらいの感覚だったのであろうか...。
公衆電話は今でも10円だから参考にならない。
郵便料金で考えてみよう。
この歌ではラブレターだから、当然封書だろう。
当時6~7歳だった私の記憶では、封書が10円、ハガキが5円だった時代があるので合致する。
今は封書の料金は80円だ。
バスの乗り越し賃も考慮に入れると、
「10円ぽっち」は今の50~80円くらいだろうか...?
これを「ぽっち」と言えるかどうかは、意見の分かれるところだろう。
私の感覚では、やはり10円以下が「ぽっち」である。
36年前と同じということだ。
これからは、お賽銭をあげるときに心の中でつぶやくことにする。
5円ぽっちでごめんなさい...。

2010年07月27日
なぜそんなに偉そうなのか!?
5月に投扇興の月例会を、初めて旧松代藩の建物で行った。
記事でも採り上げた「山寺常山邸」である。
そのとき、長野市の「松代文化施設等管理事務所」の職員とひと揉めあった。
まずは参加費のことで。
月例会では1人500円の参加費を集めている。
投扇興用の道具は、個人で買うには高価なものもあるので、会として所有している。
消耗品的な要素もあるので、ある程度の補充が必要だ。
体験者に貸し出す扇も、状態の良いものを常備しておかなければならない。
それらの費用として、毎月積み立てているのだ。
ところが、松代の文化施設を使用する際は、その類の参加費は徴収すべからずというお達しが来た。
資料代や材料代ならいいが、積立金はダメだと言う。
なぜダメなのか、その理由が釈然としない。
追及しても明確な回答は得られず、
「参加費を無料にするか、申請を取り消すか」と、極めて事務的な態度で迫ってくる。
仕方なく、その月は無料にして開催した。
当日会場に行くと、電話で確認した「使用中」の掲示が出ていない。
山寺常山邸は普段は無料で見学できる。
立派な庭園が目的の人も多いが、我々が使う「書院」にも自由に出入りできる。
貸し切りではないので観光客をシャットアウトするわけにはいかない。
ただ、投扇興は風の影響をもろに受ける。
あまりに遠慮なく出入りされては競技が成り立たない。
だから、その点を事前に確認しておいたのだ。
電話に出た職員の話では、入口に「使用中」の掲示を出すが、
それでも見学したい人は受け入れてほしいとのことだった。
それくらいならやぶさかではないと思い、使用を申し込んだのである。
ところがその掲示がない。
管理事務所に電話すると、そんなものはないと言う。
申し込みに際してはっきり確認したと言うと、職員がやってきた。
文化施設なのだから観光客を閉め出すような使い方はできないと言う。
まるでこちらがわがままを言っているような口調だ。
そんなことは百も承知だ。
言いたいのは、事前に確認したこととなぜ違うのか、
なぜそんなことを言ったのかということである。
結局、掲示は出さない、入口側のフスマは閉めて構わないということで合意した。
But...帰る際ふと見ると、玄関に「書院使用中」の紙が...。
なんだ、あるんじゃん!!
6月から新しく一般公開された建物がある。
「旧樋口家住宅」と言い、私も会員になっているNPO団体が管理している。
そこならもっと気軽に使えるかなと思い、今月の例会はそこで行った。
ところが、やはり使用申請は「松代文化施設等管理事務所」に出すのであった。
NPOは管理を任されているだけだ。
ということは、また参加費無料である。
早めに行ってセッティングを済ませる。
毛氈を広げ、的からの距離を測って座布団を置き、やれやれと思ったらスタッフがやってきた。
NPO団体が募集した一般人である。
座敷全面にゴザを敷けと言う。
山寺常山邸でもそんな手間は要らなかったし、先月ここで体験会(NPO主催)をやったときも
畳のままでOKだった...。
まあ、文化財を傷つけないようにという配慮だろうと思い、おとなしく従う。
せっかくセットした道具を片づけ、押し入れからゴザを出してきて広げる。
少し大きいこともあり、ブカブカと感触が悪い。
すると書類を手に、いろいろと注意事項を伝え始めた。
どれも、まあそんなことだろうと聞いてると、駐車場の話になった。
すぐ近くにある公民館の駐車場には駐めるなと言う。
私もそこに駐めてきた。
「?」という顔をすると、日曜日なら構わないが...とのこと。
ならば問題ない。月例会はいつも日曜だ。
と、ここでもう一人のおばさんスタッフが口を開いた。
「でも癖になるから...」
なんだ、それ?
なぜそんな偉そうな口がきけるんだ!!
おもわずムッとして言い返した。
「だから、日曜日ならいいんでしょ!」
名札を付けているだけで、立場が上のように思っているのか...。
制服や腕章でも同様の効果があるだろう。
つまりは肩書きが、態度や口調を変えてしまうのである。
歴史的な建物で月例会を行うのは、雰囲気がいいからだけではない。
観光客に少しでも体験してもらいたいからだ。
江戸時代の面影漂う松代の町で、優雅な投扇興で遊んだことは、よい旅の思い出になるだろう。
5月の会のとき、体験して行かれた山梨からの観光客の声が忘れられない。
「素敵な町ですね...」
こういう声を増やしていくことが大切ではないか。
規制を強化するのではなく、地元の住民がもっと気軽に文化施設を使えるようにすべきだろう。
「どんどん使ってください」でなくてはならない。
今のような 「貸してやる」 という態度では、理想には程遠い...。

記事でも採り上げた「山寺常山邸」である。
そのとき、長野市の「松代文化施設等管理事務所」の職員とひと揉めあった。
まずは参加費のことで。
月例会では1人500円の参加費を集めている。
投扇興用の道具は、個人で買うには高価なものもあるので、会として所有している。
消耗品的な要素もあるので、ある程度の補充が必要だ。
体験者に貸し出す扇も、状態の良いものを常備しておかなければならない。
それらの費用として、毎月積み立てているのだ。
ところが、松代の文化施設を使用する際は、その類の参加費は徴収すべからずというお達しが来た。
資料代や材料代ならいいが、積立金はダメだと言う。
なぜダメなのか、その理由が釈然としない。
追及しても明確な回答は得られず、
「参加費を無料にするか、申請を取り消すか」と、極めて事務的な態度で迫ってくる。
仕方なく、その月は無料にして開催した。
当日会場に行くと、電話で確認した「使用中」の掲示が出ていない。
山寺常山邸は普段は無料で見学できる。
立派な庭園が目的の人も多いが、我々が使う「書院」にも自由に出入りできる。
貸し切りではないので観光客をシャットアウトするわけにはいかない。
ただ、投扇興は風の影響をもろに受ける。
あまりに遠慮なく出入りされては競技が成り立たない。
だから、その点を事前に確認しておいたのだ。
電話に出た職員の話では、入口に「使用中」の掲示を出すが、
それでも見学したい人は受け入れてほしいとのことだった。
それくらいならやぶさかではないと思い、使用を申し込んだのである。
ところがその掲示がない。
管理事務所に電話すると、そんなものはないと言う。
申し込みに際してはっきり確認したと言うと、職員がやってきた。
文化施設なのだから観光客を閉め出すような使い方はできないと言う。
まるでこちらがわがままを言っているような口調だ。
そんなことは百も承知だ。
言いたいのは、事前に確認したこととなぜ違うのか、
なぜそんなことを言ったのかということである。
結局、掲示は出さない、入口側のフスマは閉めて構わないということで合意した。
But...帰る際ふと見ると、玄関に「書院使用中」の紙が...。
なんだ、あるんじゃん!!
6月から新しく一般公開された建物がある。
「旧樋口家住宅」と言い、私も会員になっているNPO団体が管理している。
そこならもっと気軽に使えるかなと思い、今月の例会はそこで行った。
ところが、やはり使用申請は「松代文化施設等管理事務所」に出すのであった。
NPOは管理を任されているだけだ。
ということは、また参加費無料である。
早めに行ってセッティングを済ませる。
毛氈を広げ、的からの距離を測って座布団を置き、やれやれと思ったらスタッフがやってきた。
NPO団体が募集した一般人である。
座敷全面にゴザを敷けと言う。
山寺常山邸でもそんな手間は要らなかったし、先月ここで体験会(NPO主催)をやったときも
畳のままでOKだった...。
まあ、文化財を傷つけないようにという配慮だろうと思い、おとなしく従う。
せっかくセットした道具を片づけ、押し入れからゴザを出してきて広げる。
少し大きいこともあり、ブカブカと感触が悪い。
すると書類を手に、いろいろと注意事項を伝え始めた。
どれも、まあそんなことだろうと聞いてると、駐車場の話になった。
すぐ近くにある公民館の駐車場には駐めるなと言う。
私もそこに駐めてきた。
「?」という顔をすると、日曜日なら構わないが...とのこと。
ならば問題ない。月例会はいつも日曜だ。
と、ここでもう一人のおばさんスタッフが口を開いた。
「でも癖になるから...」
なんだ、それ?
なぜそんな偉そうな口がきけるんだ!!
おもわずムッとして言い返した。
「だから、日曜日ならいいんでしょ!」
名札を付けているだけで、立場が上のように思っているのか...。
制服や腕章でも同様の効果があるだろう。
つまりは肩書きが、態度や口調を変えてしまうのである。
歴史的な建物で月例会を行うのは、雰囲気がいいからだけではない。
観光客に少しでも体験してもらいたいからだ。
江戸時代の面影漂う松代の町で、優雅な投扇興で遊んだことは、よい旅の思い出になるだろう。
5月の会のとき、体験して行かれた山梨からの観光客の声が忘れられない。
「素敵な町ですね...」
こういう声を増やしていくことが大切ではないか。
規制を強化するのではなく、地元の住民がもっと気軽に文化施設を使えるようにすべきだろう。
「どんどん使ってください」でなくてはならない。
今のような 「貸してやる」 という態度では、理想には程遠い...。

2010年07月26日
古文嫌いを増やすな!
高校生が古文の宿題をやっている。
見ていると、どこの高校の生徒も同じような作業をしている。
ノートに書き写した文章の単語一つ一つを三角や逆三角、楕円などで囲み、
その横に活用の種類や活用形を書き込んでいる。三角や楕円は品詞の区別をしているらしい。
格調高い珠玉の名文を切り刻んでいじくり回しているのだ...。
こんなことが楽しいわけがない。
それでも生徒たちは素直に、黙々と作業を続ける。
そのうち古文が嫌いになるのは目に見えているのに...。
おそらく、初めはどこかの予備校が始めたのだろう。
それがいつからか高校にまで広がってきたのだ。
私が高校生の頃は、こんな指導はなかった。
もちろん、退屈な文法の解説はあったが、
それよりも作品を味わうことに重点が置かれていた気がする。
前にも書いたが、私は高校で「虫めづる姫君」(堤中納言物語)という異色の話に出会って、
古典の面白さに目覚めたのである。
文法に関しては、百人一首をすべて覚え、
その解釈を100%自分のものにすることで十分対応できた。
活用の種類は答えられなくても、微妙なニュアンスの違いはわかっていたつもりだ。
まあ予備校なら、受験テクニックとしてそれを教えるのも許せる。
しかし高校までがそのまねをするのは放っておけない。
高等学校は小手先のテクニックより、学問の奥深さや学ぶ喜びを教えるべき所ではないのか...。
その高校が、生徒の嫌いな科目を自ら増やすような指導をしてどうする!
もっとも、最近では、むしろ積極的に予備校化している高校も多い。
大学受験の実績を最優先にしたカリキュラムが組まれ、
重箱の隅をつつくようなことまで、とにかく覚えさせる。
教養をつけたり学問の本質に触れるのは、大学へ行ってからでいいと考えているのだろう。
生徒の方も、案外それで満足しているのかも知れない。高校に期待しているのは、少しでもレベルの高い大学に入れるような指導だけなのだろう。
よけいなことはどうでもいいから、受かるように教えてくれということか...。
本当にこれでいいのか!?
高校のあり方とか、プライドとか、
そんなことを真剣に考えるのは時代に合わないのか...。
大学入試が変わらない限り何も変わらないという声はよく耳にする。
だが、そんな悠長なことを言っていていいのか?
10年後の日本が、私は怖ろしい...。

※画像は、先日やって来たツマグロヒョウモンの雌です。
見ていると、どこの高校の生徒も同じような作業をしている。
ノートに書き写した文章の単語一つ一つを三角や逆三角、楕円などで囲み、
その横に活用の種類や活用形を書き込んでいる。三角や楕円は品詞の区別をしているらしい。
格調高い珠玉の名文を切り刻んでいじくり回しているのだ...。
こんなことが楽しいわけがない。
それでも生徒たちは素直に、黙々と作業を続ける。
そのうち古文が嫌いになるのは目に見えているのに...。
おそらく、初めはどこかの予備校が始めたのだろう。
それがいつからか高校にまで広がってきたのだ。
私が高校生の頃は、こんな指導はなかった。
もちろん、退屈な文法の解説はあったが、
それよりも作品を味わうことに重点が置かれていた気がする。
前にも書いたが、私は高校で「虫めづる姫君」(堤中納言物語)という異色の話に出会って、
古典の面白さに目覚めたのである。
文法に関しては、百人一首をすべて覚え、
その解釈を100%自分のものにすることで十分対応できた。
活用の種類は答えられなくても、微妙なニュアンスの違いはわかっていたつもりだ。
まあ予備校なら、受験テクニックとしてそれを教えるのも許せる。
しかし高校までがそのまねをするのは放っておけない。
高等学校は小手先のテクニックより、学問の奥深さや学ぶ喜びを教えるべき所ではないのか...。
その高校が、生徒の嫌いな科目を自ら増やすような指導をしてどうする!
もっとも、最近では、むしろ積極的に予備校化している高校も多い。
大学受験の実績を最優先にしたカリキュラムが組まれ、
重箱の隅をつつくようなことまで、とにかく覚えさせる。
教養をつけたり学問の本質に触れるのは、大学へ行ってからでいいと考えているのだろう。
生徒の方も、案外それで満足しているのかも知れない。高校に期待しているのは、少しでもレベルの高い大学に入れるような指導だけなのだろう。
よけいなことはどうでもいいから、受かるように教えてくれということか...。
本当にこれでいいのか!?
高校のあり方とか、プライドとか、
そんなことを真剣に考えるのは時代に合わないのか...。
大学入試が変わらない限り何も変わらないという声はよく耳にする。
だが、そんな悠長なことを言っていていいのか?
10年後の日本が、私は怖ろしい...。

※画像は、先日やって来たツマグロヒョウモンの雌です。
2010年07月22日
蛇の祟り
一昨日の信濃毎日新聞「斜面」は、柳田国男の「遠野物語」の話題だった。
私は大学で民俗学を専攻したので、もちろんこの書は知っている。
河童や山女、狼などについての怖ろしい話が満載だ。
しかも、空想ではなく「この書は現在の事実なり」なのだ。
実際に遠野を歩いたのは遙か昔のことだが、
「いかにも...」という土地だった記憶がある。
実は偶然にも昨日、近所の老人からこんな体験談を聞いた。
今年は安協の役員なので、その長老と二人で小学校の前に立った。
まだ子どもたちの姿も見えないので川を見ていると、
2メートルに迫ろうかというアオダイショウが日なたぼっこをしていた。
しばらく蛇の話になる。
私が、自然養鶏を生業としていたとき、アオダイショウに雛を喰われた話をした。
発見したときには、上半身は金網の外に出ているものの、
飲み込んだ雛でふくれ上がった腹がつかえて、逃げ切れないでいる状態だった。
蛇は大嫌いだが、このまま逃がしてはまたやって来るに違いない。
雛だけでなく、商品である卵も常に狙われているのだ。
意を決してしっぽを捕まえて引き抜き、そのまま地面にたたきつけた。
そんな話をした後の、長老の話だ。
中学生だった頃、腹のふくれたアオダイショウを捕まえ、腹を割いてみた。
中には野ウサギの子が2羽出てきたという。
それからしばらくして、集落の裏の山にキノコを採りに行ったそうだ。
尾根近くで休んでいたら、頭の上の木にアオダイショウがいた。
すると突然霧が発生し、あっと言う間に1m先も見えなくなったという。
激しい雨も降ってきた。
ずぶ濡れになりながら帰ろうとするが、道がまったくわからない。
さんざん迷って山の向こう側に降り、5,6km歩いてやっと帰ってきたそうだ。
あれは蛇の祟り(たたり)だったと述懐する。
長く生きてきた人の、実際の体験談には重みがある...。
昔は本当にそんなことがあったのだ。
いや、今でもあるのに、語り継がれていないだけかも知れない。
非科学的だ、迷信だと、貴重な体験が伝えられないまま埋もれているのではないか...。
自然や生き物や怪異現象を、畏れ敬っていた時代の方が、
精神的にはずっと豊かだった気がする...。

p.s. 画像は昔の携帯で撮った写真なので不鮮明ですが、卵を飲み込んでいるアオダイショウです。
産卵箱の中にいたのでびっくりしました...。
私は大学で民俗学を専攻したので、もちろんこの書は知っている。
河童や山女、狼などについての怖ろしい話が満載だ。
しかも、空想ではなく「この書は現在の事実なり」なのだ。
実際に遠野を歩いたのは遙か昔のことだが、
「いかにも...」という土地だった記憶がある。
実は偶然にも昨日、近所の老人からこんな体験談を聞いた。
今年は安協の役員なので、その長老と二人で小学校の前に立った。
まだ子どもたちの姿も見えないので川を見ていると、
2メートルに迫ろうかというアオダイショウが日なたぼっこをしていた。
しばらく蛇の話になる。
私が、自然養鶏を生業としていたとき、アオダイショウに雛を喰われた話をした。
発見したときには、上半身は金網の外に出ているものの、
飲み込んだ雛でふくれ上がった腹がつかえて、逃げ切れないでいる状態だった。
蛇は大嫌いだが、このまま逃がしてはまたやって来るに違いない。
雛だけでなく、商品である卵も常に狙われているのだ。
意を決してしっぽを捕まえて引き抜き、そのまま地面にたたきつけた。
そんな話をした後の、長老の話だ。
中学生だった頃、腹のふくれたアオダイショウを捕まえ、腹を割いてみた。
中には野ウサギの子が2羽出てきたという。
それからしばらくして、集落の裏の山にキノコを採りに行ったそうだ。
尾根近くで休んでいたら、頭の上の木にアオダイショウがいた。
すると突然霧が発生し、あっと言う間に1m先も見えなくなったという。
激しい雨も降ってきた。
ずぶ濡れになりながら帰ろうとするが、道がまったくわからない。
さんざん迷って山の向こう側に降り、5,6km歩いてやっと帰ってきたそうだ。
あれは蛇の祟り(たたり)だったと述懐する。
長く生きてきた人の、実際の体験談には重みがある...。
昔は本当にそんなことがあったのだ。
いや、今でもあるのに、語り継がれていないだけかも知れない。
非科学的だ、迷信だと、貴重な体験が伝えられないまま埋もれているのではないか...。
自然や生き物や怪異現象を、畏れ敬っていた時代の方が、
精神的にはずっと豊かだった気がする...。

p.s. 画像は昔の携帯で撮った写真なので不鮮明ですが、卵を飲み込んでいるアオダイショウです。
産卵箱の中にいたのでびっくりしました...。
2010年07月21日
メッカを向け!
昨日のYahooニュースにこんな記事があった。
「メッカ西でない 祈る方角訂正」
インドネシアでの話である。
イスラム社会の最高権威であるウレマ評議会というところが、
同国の信者がこれまで祈りを捧げていた方角は間違いだったとして、訂正の宗教令を出したのだという。
これ、6月28日の記事で私がよけいなお世話の心配をしていた話だ...。
実際にそんなまぬけな話があるとは思ってもいなかった。
だが、待てよ...。
インドネシアならほぼ赤道上だから、日本におけるようなややこしさはないんじゃないだろうか...。
おなじみのメルカトル図法で判断しても、そんなにズレはないはずだ。
真西がタンザニアやケニアにあたるのは、すぐわかるのではないか...。
こんな単純な、しかし重要な間違いがなぜ起きたのか。
さらに、なぜこれまで誰も指摘しなかったのだろうか...。
と思って記事をよく読むと、
西の方角を向くようにとの通達を出したのは、この3月のことだという。
最近になって、わざわざまちがった指示を出していたわけだ。
それまで習慣的に正しい方角を向いていた信者まで、振り回された結果になったのではないか...。
いつかの「雑学王」で、韓国のサムスンだったかLGだったかが、
イスラム圏で販売している携帯電話の話題があった。
その名も「メッカフォン」。
どこにいてもメッカの方角が瞬時に正確にわかる機能を付け、
爆発的な人気だと言っていた。
ひょっとすると今回の騒動も、誰かが「メッカフォン」で確認したことが発端になっているのかも知れない。

p.s.携帯ではないが、メッカの方角がすぐにわかるコンパスがあった。一周が400度というのが謎である...。
「メッカ西でない 祈る方角訂正」
インドネシアでの話である。
イスラム社会の最高権威であるウレマ評議会というところが、
同国の信者がこれまで祈りを捧げていた方角は間違いだったとして、訂正の宗教令を出したのだという。
これ、6月28日の記事で私がよけいなお世話の心配をしていた話だ...。
実際にそんなまぬけな話があるとは思ってもいなかった。
だが、待てよ...。
インドネシアならほぼ赤道上だから、日本におけるようなややこしさはないんじゃないだろうか...。
おなじみのメルカトル図法で判断しても、そんなにズレはないはずだ。
真西がタンザニアやケニアにあたるのは、すぐわかるのではないか...。
こんな単純な、しかし重要な間違いがなぜ起きたのか。
さらに、なぜこれまで誰も指摘しなかったのだろうか...。
と思って記事をよく読むと、
西の方角を向くようにとの通達を出したのは、この3月のことだという。
最近になって、わざわざまちがった指示を出していたわけだ。
それまで習慣的に正しい方角を向いていた信者まで、振り回された結果になったのではないか...。
いつかの「雑学王」で、韓国のサムスンだったかLGだったかが、
イスラム圏で販売している携帯電話の話題があった。
その名も「メッカフォン」。
どこにいてもメッカの方角が瞬時に正確にわかる機能を付け、
爆発的な人気だと言っていた。
ひょっとすると今回の騒動も、誰かが「メッカフォン」で確認したことが発端になっているのかも知れない。

p.s.携帯ではないが、メッカの方角がすぐにわかるコンパスがあった。一周が400度というのが謎である...。
2010年07月19日
盆踊りにはこの曲!
7月17日、18日と、松代の町では祇園祭が行われた。
夜には目抜き通りが歩行者天国となり、夜店も出て賑わった。
塾の前の通りも車両通行止めとなったので、少し離れた銀行に駐めざるを得ない。
それはまあ我慢する。
ちょうど授業時間に当たるが、多少うるさくなるのも覚悟の上だった。
ところが、フタを開けてみたら、生徒が集中できなくなるくらいの大騒ぎ。
塾の真ん前で御輿が止まり、そこで盆踊り(だと思う...中から見てないので...)が始まった。
スピーカーから大音声で流れてくるのは、おなじみの「好きになった人」(by都はるみ)だ。
何分か続いたら、御輿が移動し始めて遠ざかっていく。
やれやれと思っていたら、そのうち戻ってきて、
また「♪チャララチャチャ、チャラチャチャ...」が始まった。
...生徒も大変だ。
考えてみたらこの曲、ずいぶん前から盆踊りに使われている。
昭和43年の曲だから、もう40年以上全国で流れていると思われる。
どこの町内会にもテープの1,2本はありそうだ。
圧倒的なシェアを誇っているに違いない。
イントロの知名度もかなり高いのではないか...。
それにしても、他に曲はないのか?
首都圏ならこれに「東京音頭」が加わる。
「炭坑節」もかなりの確率で採用されていた。
昔行った郡上八幡の盆踊りが懐かしい。
地元の民謡6曲が繰り返し演奏され、一晩中踊り明かす。
テンポの速い曲と遅いものがうまく組み合わされ、
長く踊っても疲れにくい構成になっていた。
本当はこのように、地元に古くから伝わる曲だけで踊るのが理想だが、
昨今ではそれを知っている若い世代は多くない。
そこで、誰でも知っている歌謡曲を使ったというのが始まりだろう。
それが40年も定番となっているのは驚きである。
昭和の時代なら、いくつも国民的大ヒット曲があった。
「好きになった人」以外にも、踊りやすい曲はあったはずだ。
あるいはそういう冒険もあったのかも知れないが、今に残っているものはない。
平成に入ってからは、国民的ヒット曲は皆無に等しい。
「千の風になって」はそう呼べるかも知れないが、盆踊りには向かないだろう。
氷川きよしの曲など、あってもおかしくないと思うのだが...。
「♪やだねったら、やだね」あたり、どこかで使われていそうだ。
「好きになった人」の歌詞は、どちらかと言えば暗い。
一時代前の「耐えて待つ女」がテーマの、典型的演歌だ。
この曲が盆踊り用として長らえている理由は、
テンポの良さと共に、この日陰っぽいイメージの歌詞にもあるのではないか。
盆踊りの曲は明るすぎてはいけないのである。
あのメロディーも捨てがたい魅力がある。
町内会の、かなりくたびれたテープの音はさらにいい。
胡弓の音にも似て、哀愁をかき立てられる。
まさか初めからそれを狙って作られたわけではあるまいが、
この曲は、盆踊りの曲としてふさわしい条件を満たしていたのである。
ところで、日本全国であれだけ流れている分、
著作権料はどうなっているのだろう?
初めはレコードやCDを購入していたとしても、
個人で楽しむ領域は超えているので、著作権料が発生しそうなものだが...。
各町内会が支払っているとは思えない。
そんな無粋なことは言わないで、というところだろうが、
日本中の分を合わせたらかなりの額になると思うのだが...。

夜には目抜き通りが歩行者天国となり、夜店も出て賑わった。
塾の前の通りも車両通行止めとなったので、少し離れた銀行に駐めざるを得ない。
それはまあ我慢する。
ちょうど授業時間に当たるが、多少うるさくなるのも覚悟の上だった。
ところが、フタを開けてみたら、生徒が集中できなくなるくらいの大騒ぎ。
塾の真ん前で御輿が止まり、そこで盆踊り(だと思う...中から見てないので...)が始まった。
スピーカーから大音声で流れてくるのは、おなじみの「好きになった人」(by都はるみ)だ。
何分か続いたら、御輿が移動し始めて遠ざかっていく。
やれやれと思っていたら、そのうち戻ってきて、
また「♪チャララチャチャ、チャラチャチャ...」が始まった。
...生徒も大変だ。
考えてみたらこの曲、ずいぶん前から盆踊りに使われている。
昭和43年の曲だから、もう40年以上全国で流れていると思われる。
どこの町内会にもテープの1,2本はありそうだ。
圧倒的なシェアを誇っているに違いない。
イントロの知名度もかなり高いのではないか...。
それにしても、他に曲はないのか?
首都圏ならこれに「東京音頭」が加わる。
「炭坑節」もかなりの確率で採用されていた。
昔行った郡上八幡の盆踊りが懐かしい。
地元の民謡6曲が繰り返し演奏され、一晩中踊り明かす。
テンポの速い曲と遅いものがうまく組み合わされ、
長く踊っても疲れにくい構成になっていた。
本当はこのように、地元に古くから伝わる曲だけで踊るのが理想だが、
昨今ではそれを知っている若い世代は多くない。
そこで、誰でも知っている歌謡曲を使ったというのが始まりだろう。
それが40年も定番となっているのは驚きである。
昭和の時代なら、いくつも国民的大ヒット曲があった。
「好きになった人」以外にも、踊りやすい曲はあったはずだ。
あるいはそういう冒険もあったのかも知れないが、今に残っているものはない。
平成に入ってからは、国民的ヒット曲は皆無に等しい。
「千の風になって」はそう呼べるかも知れないが、盆踊りには向かないだろう。
氷川きよしの曲など、あってもおかしくないと思うのだが...。
「♪やだねったら、やだね」あたり、どこかで使われていそうだ。
「好きになった人」の歌詞は、どちらかと言えば暗い。
一時代前の「耐えて待つ女」がテーマの、典型的演歌だ。
この曲が盆踊り用として長らえている理由は、
テンポの良さと共に、この日陰っぽいイメージの歌詞にもあるのではないか。
盆踊りの曲は明るすぎてはいけないのである。
あのメロディーも捨てがたい魅力がある。
町内会の、かなりくたびれたテープの音はさらにいい。
胡弓の音にも似て、哀愁をかき立てられる。
まさか初めからそれを狙って作られたわけではあるまいが、
この曲は、盆踊りの曲としてふさわしい条件を満たしていたのである。
ところで、日本全国であれだけ流れている分、
著作権料はどうなっているのだろう?
初めはレコードやCDを購入していたとしても、
個人で楽しむ領域は超えているので、著作権料が発生しそうなものだが...。
各町内会が支払っているとは思えない。
そんな無粋なことは言わないで、というところだろうが、
日本中の分を合わせたらかなりの額になると思うのだが...。

2010年07月18日
国語の授業は役に立っているか?
二つ運営しているうちの一つの塾で、毎月俳句や短歌を覚えさせている。
季節に合ったものを7,8個選んで月初めにリストを渡し、教室にも掲示する。
翌月の初めに穴埋め問題でチェック。
俳句は初めの5文字、短歌は上の句の5文字と下の句の7文字のみ提示されていて、残りを埋める。
みんな、苦労しながらも何とかクリアしている。
今月の俳句の一つに次の句がある。
夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる (山口誓子)
「汽缶車」という表記が時代を感じさせる。
生徒に披露する前に、作者と正確な表記を確認するために、いつもネットで検索するのだが、
今回この句を入力したら、こんなサイトにたどり着いた。
どうも、全国の学校教師が指導案などを情報交換する場であるらしい。
ちょっと興味を引かれて読んでみる。
ん?...なんだ、この予定調和的な授業は...。
「何に感動したのでしょうか。」だって?
「話者は車輪をどの位置から見ていますか。」だと...?
どうでもいいようなことを、如何にも大切なことのようにいじくり回している。
だが、我々が受けてきた国語の授業って、こんな感じだったよな...と思う。
いったい国語って何を教える教科なのか?
漢字と文法、古文や漢文は、教えることが明確なのでわかりやすい。
問題は現代文だ。
「読解」というより「鑑賞」に重きが置かれすぎているのではないかと思う。
冒頭の俳句に関しては、私のイメージは、
鄙びた終着駅の車止めの手前に自分がいて、
汽車が向こうから自分の方に寄って来て止まる感じだ。
紹介したサイトにあるような、真横から見ている絵ではない。
その辺は自由でいいのではないか?
理屈をこねればこねるほど、虚しさが募る...。
今の学校の(特に小学校の)国語の授業は、どう感じたか、どう思ったかばかりに
重点が置かれすぎている。
読解でも作文でもそうだ。
もっと言えば、どう感じるべきか、どう思うべきかに偏っている面もあるが、
まあ、それについては今回は触れないでおく。
先日亡くなった井上ひさし氏が書いたこんな本がある。
文章上達のための具体的な提言が満載の本だ。
氏は言う。
感想文なんて大人だって難しい。
どう感じたかより前に、事実を正確に伝える文章を書く練習を積むべきだとと...。
これにはまったく同感である。
塾で使っているオリジナル教材も、絵や図形、漢字、地図などを題材に、
「説明力」をつけることを重視したものだ。
漢検の不祥事のあおりを受けてなくなってしまった「文検」(日本語文章能力検定)でも、
絵を説明する問題があり、そこには「あなたが考えたことを書いてはいけません」という注釈があった。
推測で「親子が」とか「兄弟が」などと書くと減点される。
絵から客観的に判断できることのみを説明せよというものだった。
学校で十何年国語を学んだはずなのに、
書く力、話す力が確立できていない日本人が少なくない。
文科省もようやく、「言語力の育成」と称して、
論理的に考え、論理的に伝える力を育むことに重きを置き始めたが、
国語の授業のあり方が旧態依然では、その実現は極めて難しいだろう。
いっそのこと「国語」と別の教科を立ち上げた方がいいのかも知れない。
鑑賞は「国語」に任せ、
観察、描写、報告から始まり、見聞したものを正確に伝える、
誤解のないよう、しかもわかりやすく伝える練習を主とした新教科を作る。
相手の立場に立つ想像力や、自分の文章を吟味する力も養われるだろう。
説明文がやがては意見文になり、小論文になる。
ここでは自分の考えを整理する力が重要になる。
要約力を高めることも欠かせない。
今、そんな教材を少しずつ作成中である。
以前作った教材がいろいろあるのだが、単発的なものが多い。
体系的な言語力教材、まずは中学生向けのものを、今年中には完成させたいと思っている。

季節に合ったものを7,8個選んで月初めにリストを渡し、教室にも掲示する。
翌月の初めに穴埋め問題でチェック。
俳句は初めの5文字、短歌は上の句の5文字と下の句の7文字のみ提示されていて、残りを埋める。
みんな、苦労しながらも何とかクリアしている。
今月の俳句の一つに次の句がある。
夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる (山口誓子)
「汽缶車」という表記が時代を感じさせる。
生徒に披露する前に、作者と正確な表記を確認するために、いつもネットで検索するのだが、
今回この句を入力したら、こんなサイトにたどり着いた。
どうも、全国の学校教師が指導案などを情報交換する場であるらしい。
ちょっと興味を引かれて読んでみる。
ん?...なんだ、この予定調和的な授業は...。
「何に感動したのでしょうか。」だって?
「話者は車輪をどの位置から見ていますか。」だと...?
どうでもいいようなことを、如何にも大切なことのようにいじくり回している。
だが、我々が受けてきた国語の授業って、こんな感じだったよな...と思う。
いったい国語って何を教える教科なのか?
漢字と文法、古文や漢文は、教えることが明確なのでわかりやすい。
問題は現代文だ。
「読解」というより「鑑賞」に重きが置かれすぎているのではないかと思う。
冒頭の俳句に関しては、私のイメージは、
鄙びた終着駅の車止めの手前に自分がいて、
汽車が向こうから自分の方に寄って来て止まる感じだ。
紹介したサイトにあるような、真横から見ている絵ではない。
その辺は自由でいいのではないか?
理屈をこねればこねるほど、虚しさが募る...。
今の学校の(特に小学校の)国語の授業は、どう感じたか、どう思ったかばかりに
重点が置かれすぎている。
読解でも作文でもそうだ。
もっと言えば、どう感じるべきか、どう思うべきかに偏っている面もあるが、
まあ、それについては今回は触れないでおく。
先日亡くなった井上ひさし氏が書いたこんな本がある。
文章上達のための具体的な提言が満載の本だ。
氏は言う。
感想文なんて大人だって難しい。
どう感じたかより前に、事実を正確に伝える文章を書く練習を積むべきだとと...。
これにはまったく同感である。
塾で使っているオリジナル教材も、絵や図形、漢字、地図などを題材に、
「説明力」をつけることを重視したものだ。
漢検の不祥事のあおりを受けてなくなってしまった「文検」(日本語文章能力検定)でも、
絵を説明する問題があり、そこには「あなたが考えたことを書いてはいけません」という注釈があった。
推測で「親子が」とか「兄弟が」などと書くと減点される。
絵から客観的に判断できることのみを説明せよというものだった。
学校で十何年国語を学んだはずなのに、
書く力、話す力が確立できていない日本人が少なくない。
文科省もようやく、「言語力の育成」と称して、
論理的に考え、論理的に伝える力を育むことに重きを置き始めたが、
国語の授業のあり方が旧態依然では、その実現は極めて難しいだろう。
いっそのこと「国語」と別の教科を立ち上げた方がいいのかも知れない。
鑑賞は「国語」に任せ、
観察、描写、報告から始まり、見聞したものを正確に伝える、
誤解のないよう、しかもわかりやすく伝える練習を主とした新教科を作る。
相手の立場に立つ想像力や、自分の文章を吟味する力も養われるだろう。
説明文がやがては意見文になり、小論文になる。
ここでは自分の考えを整理する力が重要になる。
要約力を高めることも欠かせない。
今、そんな教材を少しずつ作成中である。
以前作った教材がいろいろあるのだが、単発的なものが多い。
体系的な言語力教材、まずは中学生向けのものを、今年中には完成させたいと思っている。

2010年07月13日
ノートは贅沢に使え
塾では、テキストや問題集に直接答えを書き込むことはさせない。
繰り返し練習できるようにするためだ。
すべてノートに答えさせる。
作図やグラフなどは、問題により直接記入も認めるが、
必要な場合はコピーしたものをノートに貼って解かせる。
大学ノートは無料支給だ。
もちろん、教科ごとに分けさせる。
いくらでも好きに使っていいと言ってあるが、
以前からのよき伝統が受け継がれ、
生徒は「ノートもらいます」と一言言って持って行く。
(余談であり自慢話だが、この辺りの躾はかなり行き届いている。
「○○借ります」「××ありがとうございました」が、ごく自然に出てくる。)
で、問題はそのノートの使い方だ。
以下、主に数学の場合について述べる。
できない子は決まってノートの使い方が悪い。
字が乱雑で、次の式に行くとき自分で写しまちがっている。
いろいろな所に式が書いてあり、どこが答えなのかわからない。
隅の方でチョコチョコ計算した跡がある...。
あるいは途中式を書かない。
よそで計算した過程をすべて消してしまう。
英語で言えば、穴埋め問題で答えの箇所だけを書いている...。
ノートに答えるときは、まず整理できていることが第一だ。
問題と途中式と解答が一目で区別できるように書く。
証明の記述なら、
「仮定より」がどこまでなのか、「よって」がどこから導かれるのか、
段落を意識して書き分けなければならない。
言い換えれば、論理的な書き方をしろということだ。
頭の中が整理できていなければ、答え方も整理できない。
逆に、少しでも整理できた答えを書こうとする心構えが、
思考を整理する手助けになるのではないかと思う。
ここで大切なのは、
「整理できている」のと、「よけいなことを書かない」のは別物だ ということだ。
書いておかなければならない「よけいなこと」もあるのだ。
途中式をどの程度まで書くかは場合によるが、
あまりにも省力しすぎて間違ってばかりいるようでは困る。
英語の穴埋め問題なら、正しい単語を補って全文を書いた方が、文の形が覚えやすいはずだ。
そこで生徒に勧めているのが、ノートを二つの部分に分ける使い方である。
見開きの左ページと右ページで分けてもいいし、
1ページを縦に二等分している子もいる。
左側に問題、最低限の途中式、解答を書く。
細かい計算をしたり、思考途中で図を書いたりするときは右側を使う。
右側の書いたものは消さずに残しておく。
左側は極力丁寧に書く。
右側は多少乱雑でも構わないが、とにかく思考の過程をすべて保存しておくことだ。
間違った場合はどこでミスしたのか確かめる必要があるし、
合っていたときも、生徒がどう考えたのかを辿ることができる。
大切なのは、どちらかのページが埋まったら、
もう片方に余白があっても気にせずに次のページに進むことだ。
極端な場合、右側を全く使う必要がないこともあるだろう。
それでも構わない。
ノートはいくらでもあげるので、贅沢に使ってほしいのだ。
それにしても、いつも思うのだが、
なぜ生徒たちは分数を1行に収めようとするのだろう?
塾で常備しているノートはA罫と呼ばれる、太い罫のものだが、
それでも分母と分子を1行に収めるのは無理がある。
小さい字になって間違いが起きやすい。
「分母と分子が2行にまたがるように書けば?」とアドバイスするだけで
計算ミスは確実に少なくできる。
ノートをチマチマ使うのは、百害あって一利なしである。

繰り返し練習できるようにするためだ。
すべてノートに答えさせる。
作図やグラフなどは、問題により直接記入も認めるが、
必要な場合はコピーしたものをノートに貼って解かせる。
大学ノートは無料支給だ。
もちろん、教科ごとに分けさせる。
いくらでも好きに使っていいと言ってあるが、
以前からのよき伝統が受け継がれ、
生徒は「ノートもらいます」と一言言って持って行く。
(余談であり自慢話だが、この辺りの躾はかなり行き届いている。
「○○借ります」「××ありがとうございました」が、ごく自然に出てくる。)
で、問題はそのノートの使い方だ。
以下、主に数学の場合について述べる。
できない子は決まってノートの使い方が悪い。
字が乱雑で、次の式に行くとき自分で写しまちがっている。
いろいろな所に式が書いてあり、どこが答えなのかわからない。
隅の方でチョコチョコ計算した跡がある...。
あるいは途中式を書かない。
よそで計算した過程をすべて消してしまう。
英語で言えば、穴埋め問題で答えの箇所だけを書いている...。
ノートに答えるときは、まず整理できていることが第一だ。
問題と途中式と解答が一目で区別できるように書く。
証明の記述なら、
「仮定より」がどこまでなのか、「よって」がどこから導かれるのか、
段落を意識して書き分けなければならない。
言い換えれば、論理的な書き方をしろということだ。
頭の中が整理できていなければ、答え方も整理できない。
逆に、少しでも整理できた答えを書こうとする心構えが、
思考を整理する手助けになるのではないかと思う。
ここで大切なのは、
「整理できている」のと、「よけいなことを書かない」のは別物だ ということだ。
書いておかなければならない「よけいなこと」もあるのだ。
途中式をどの程度まで書くかは場合によるが、
あまりにも省力しすぎて間違ってばかりいるようでは困る。
英語の穴埋め問題なら、正しい単語を補って全文を書いた方が、文の形が覚えやすいはずだ。
そこで生徒に勧めているのが、ノートを二つの部分に分ける使い方である。
見開きの左ページと右ページで分けてもいいし、
1ページを縦に二等分している子もいる。
左側に問題、最低限の途中式、解答を書く。
細かい計算をしたり、思考途中で図を書いたりするときは右側を使う。
右側の書いたものは消さずに残しておく。
左側は極力丁寧に書く。
右側は多少乱雑でも構わないが、とにかく思考の過程をすべて保存しておくことだ。
間違った場合はどこでミスしたのか確かめる必要があるし、
合っていたときも、生徒がどう考えたのかを辿ることができる。
大切なのは、どちらかのページが埋まったら、
もう片方に余白があっても気にせずに次のページに進むことだ。
極端な場合、右側を全く使う必要がないこともあるだろう。
それでも構わない。
ノートはいくらでもあげるので、贅沢に使ってほしいのだ。
それにしても、いつも思うのだが、
なぜ生徒たちは分数を1行に収めようとするのだろう?
塾で常備しているノートはA罫と呼ばれる、太い罫のものだが、
それでも分母と分子を1行に収めるのは無理がある。
小さい字になって間違いが起きやすい。
「分母と分子が2行にまたがるように書けば?」とアドバイスするだけで
計算ミスは確実に少なくできる。
ノートをチマチマ使うのは、百害あって一利なしである。

2010年07月07日
妬み心
人を妬む心とは長いこと無縁になってしまった。
歳と共に丸くなってきたのか、
会社勤めではない気楽さ故か、
はたまた、自分の限界がわかってきたからか...。
恋多き若い頃は、自分はなんて嫉妬深いんだと
自己嫌悪に陥ったこともある。
嫉妬心がバネになって闘争心が高められ、
結果的によい方向に行くこともあるだろう。
それでもなお、妬み心そのものは自分では排除したいマイナス感情である。
W杯で日本がパラグアイに負けたとき、
韓国の国民は喜んだ人が多かったという。
先に韓国が敗退していたので、
日本だけが勝ち上がるのは面白くなかったようだ。
アジアの仲間よりパラグアイを応援する光景が見られたそうだ。
2002年の日韓共同開催のとき、
日本はベスト16で敗れたが、韓国はベスト4まで進んだ。
あのときは、多少の羨ましさはあったものの、
ポルトガルを、イタリアを、そしてスペインを、
次々と撃破した韓国を純粋に応援していた。
さすがに優勝されると困るなという感情はあったが...。
あれは判官贔屓のようなものだったのか...。
今回、アルゼンチンが負けたときも、ブラジル人は大いに喜んだそうだ。
お互いに優勝できる実力があったが故に、妬み心が増すのかも知れない。
結局、決勝トーナメントに5カ国も残った南米は、すべて敗れ去った。
投扇興を詠んだ俳句にこんなのがある。
投扇興 妬み心の しばしあり
わかる...。

※画像は「やきもち」です...。
歳と共に丸くなってきたのか、
会社勤めではない気楽さ故か、
はたまた、自分の限界がわかってきたからか...。
恋多き若い頃は、自分はなんて嫉妬深いんだと
自己嫌悪に陥ったこともある。
嫉妬心がバネになって闘争心が高められ、
結果的によい方向に行くこともあるだろう。
それでもなお、妬み心そのものは自分では排除したいマイナス感情である。
W杯で日本がパラグアイに負けたとき、
韓国の国民は喜んだ人が多かったという。
先に韓国が敗退していたので、
日本だけが勝ち上がるのは面白くなかったようだ。
アジアの仲間よりパラグアイを応援する光景が見られたそうだ。
2002年の日韓共同開催のとき、
日本はベスト16で敗れたが、韓国はベスト4まで進んだ。
あのときは、多少の羨ましさはあったものの、
ポルトガルを、イタリアを、そしてスペインを、
次々と撃破した韓国を純粋に応援していた。
さすがに優勝されると困るなという感情はあったが...。
あれは判官贔屓のようなものだったのか...。
今回、アルゼンチンが負けたときも、ブラジル人は大いに喜んだそうだ。
お互いに優勝できる実力があったが故に、妬み心が増すのかも知れない。
結局、決勝トーナメントに5カ国も残った南米は、すべて敗れ去った。
投扇興を詠んだ俳句にこんなのがある。
投扇興 妬み心の しばしあり
わかる...。

※画像は「やきもち」です...。
2010年06月29日
ペット嫌いは悪なのか?
私はペットが嫌いだ。
虫や魚、小鳥など、狭い空間から出てこないものならまだいいが、犬や猫はダメ。
以前、養鶏場で犬を飼っていたことがあるが、あくまでも番犬としてである。
特に、家の中で犬猫を飼うのは考えられない。
言っておくが、わが家は決して整理整頓、掃除が行き届いているわけではない。
むしろホコリだらけである。
きれい好きだから嫌っているのではないのだ。
「家族の一員」などと言って、屋内で放し飼いにしたり、一緒に寝たり、
服まで着せて喜んでいるのには、とてもついて行けない。
それにしても、なぜこんなにもペットを飼っている、あるいはペット大好きという人が多いのか?
周りの家を見ても、特に犬を飼っている割合は相当高い。
ブログでもペットの話題や写真は至るところにある。
動画サイトでも、テレビ番組でも、犬や猫を対象としたものは大人気だ。
それだけ日本が豊かということか、はたまた人との付き合いが希薄だからか...。
まあ、好きなのは勝手だから文句は言わない。
問題は、ペット嫌いが異端視されるような風潮である。
みんながペット好きだなどと思わないでもらいたい。
散歩中にリードを外して「おとなしいから大丈夫」と言われても、
そばに寄ってこられるだけで不快or怖いのだ。
よその家を訪ねて上がらせてもらったはいいが、
猫がこちらの膝の上にまでのぼってくるのは勘弁してもらいたい。
ペット嫌いはどんどん肩身が狭くなっている。
犬と猫どちらが好きかと聞かれて、「どちらも嫌い」などと答えたら、白い目で見られそうだ。
「ペット好きに悪い人はいない」という、何の根拠もない価値観が幅をきかせ、
ペット嫌いが冷たい人、変わり者、果ては非人間扱いされる世の中はどこかがおかしい...。

虫や魚、小鳥など、狭い空間から出てこないものならまだいいが、犬や猫はダメ。
以前、養鶏場で犬を飼っていたことがあるが、あくまでも番犬としてである。
特に、家の中で犬猫を飼うのは考えられない。
言っておくが、わが家は決して整理整頓、掃除が行き届いているわけではない。
むしろホコリだらけである。
きれい好きだから嫌っているのではないのだ。
「家族の一員」などと言って、屋内で放し飼いにしたり、一緒に寝たり、
服まで着せて喜んでいるのには、とてもついて行けない。
それにしても、なぜこんなにもペットを飼っている、あるいはペット大好きという人が多いのか?
周りの家を見ても、特に犬を飼っている割合は相当高い。
ブログでもペットの話題や写真は至るところにある。
動画サイトでも、テレビ番組でも、犬や猫を対象としたものは大人気だ。
それだけ日本が豊かということか、はたまた人との付き合いが希薄だからか...。
まあ、好きなのは勝手だから文句は言わない。
問題は、ペット嫌いが異端視されるような風潮である。
みんながペット好きだなどと思わないでもらいたい。
散歩中にリードを外して「おとなしいから大丈夫」と言われても、
そばに寄ってこられるだけで不快or怖いのだ。
よその家を訪ねて上がらせてもらったはいいが、
猫がこちらの膝の上にまでのぼってくるのは勘弁してもらいたい。
ペット嫌いはどんどん肩身が狭くなっている。
犬と猫どちらが好きかと聞かれて、「どちらも嫌い」などと答えたら、白い目で見られそうだ。
「ペット好きに悪い人はいない」という、何の根拠もない価値観が幅をきかせ、
ペット嫌いが冷たい人、変わり者、果ては非人間扱いされる世の中はどこかがおかしい...。

2010年06月28日
信州人は方角に強い?
店や施設の位置を人に説明するとき、
私なら、たとえば「郵便局の右」とか「コンビニの向かい」という言い方をする。
それが普通の教え方だと思っていた。
ところが長野では、方角を使う人が多いように感じる。
「郵便局の東」「コンビニの南」という具合に...。
実際はどうか知らないが、少なくとも私の周りに数人はいる。
確かにこの方が誤解はない。
「右」「左」はどちらを向いているかによって変わってしまう。
「東」「南」なら絶対的なものだから正確だ。
私が塾で指導中の様子を外から見かけた人に、後日言われた。
「この前東向いて立ってたね?」
...これには面食らった。
塾の中でどっちが東だか、とっさには出てこない。
私は決して方向音痴ではない。
地図を読むのは大好きだし、
カーナビの指示より自分の方向感覚を信じる。
それでも、人との会話に方角を使うことは稀である。
母親(三浦半島出身)から聞いた話だが、
彼女の知り合いに、方角ではなく「太平洋側」「日本海側」を使う人がいたという。
「もう少し太平洋側」とか「そこから3軒日本海側」とか...。
これはこれで、スケールが大きくて気持ちいい。
やはり、海が近くにあるゆえの発想だろうか...。
信州人にとって方角が身近なのも、自然条件と関係があるのか?
四方に山があり、その名前や姿から容易に方角がわかるからだろうか。
農業県ゆえに、また雪国ゆえに、太陽のありがたみを身に浸みて感じ、
その動きに敏感になったからだろうか。
いずれにしても、観光客や出張で来たビジネスマンなど、
地元に詳しくない人には、方角は使わずに説明する方が親切というものだろう。
地図が手元になければ、方角を言われてもさっぱりわからない。
太陽があれば少しは参考になるが...。
方角を知るために、最近ではもっぱらBSアンテナを探している。
それで南西がわかれば何とかなる...。
話は変わるが、方角と言えばイスラム教の信者である。
彼らほど、日々の生活の中で方角を意識している者はいないだろう。
一日5回、メッカの方角を向いて祈りを捧げなければならないのだから、
どこにいようと正確に東西南北を把握している必要がある。
と、ここで考え込んでしまった。
日本から見て「メッカの方角」とはどっちだろう?
見慣れた世界地図で考えて「西」と答えると×である。
「日本から真東に進むと初めに到達する大陸はどこか?」という問に、
ほとんどの中学生は「北アメリカ」と答える。
正解は「南アメリカ」だ。
人間は球面上に住んでいることを忘れてはならない。
日本から真東に進むとチリに着くはずである。
同様に、日本から真西に進むと、
インドを経由してケニア、タンザニア辺りに到達する ことになるだろう。
方角を正確に地図上に表したのが「正距方位図法」である。
これで見るとメッカは日本から西北西というところか...。
今まで真西を向いて祈りを捧げていたイスラム信者の方がいらっっしゃれば、
今日からは少しだけ北寄りに方向を修正することをお勧めする。

ただ、一般的には、方角を聞いてピンとくる人は少ない
私なら、たとえば「郵便局の右」とか「コンビニの向かい」という言い方をする。
それが普通の教え方だと思っていた。
ところが長野では、方角を使う人が多いように感じる。
「郵便局の東」「コンビニの南」という具合に...。
実際はどうか知らないが、少なくとも私の周りに数人はいる。
確かにこの方が誤解はない。
「右」「左」はどちらを向いているかによって変わってしまう。
「東」「南」なら絶対的なものだから正確だ。
私が塾で指導中の様子を外から見かけた人に、後日言われた。
「この前東向いて立ってたね?」
...これには面食らった。
塾の中でどっちが東だか、とっさには出てこない。
私は決して方向音痴ではない。
地図を読むのは大好きだし、
カーナビの指示より自分の方向感覚を信じる。
それでも、人との会話に方角を使うことは稀である。
母親(三浦半島出身)から聞いた話だが、
彼女の知り合いに、方角ではなく「太平洋側」「日本海側」を使う人がいたという。
「もう少し太平洋側」とか「そこから3軒日本海側」とか...。
これはこれで、スケールが大きくて気持ちいい。
やはり、海が近くにあるゆえの発想だろうか...。
信州人にとって方角が身近なのも、自然条件と関係があるのか?
四方に山があり、その名前や姿から容易に方角がわかるからだろうか。
農業県ゆえに、また雪国ゆえに、太陽のありがたみを身に浸みて感じ、
その動きに敏感になったからだろうか。
いずれにしても、観光客や出張で来たビジネスマンなど、
地元に詳しくない人には、方角は使わずに説明する方が親切というものだろう。
地図が手元になければ、方角を言われてもさっぱりわからない。
太陽があれば少しは参考になるが...。
方角を知るために、最近ではもっぱらBSアンテナを探している。
それで南西がわかれば何とかなる...。
話は変わるが、方角と言えばイスラム教の信者である。
彼らほど、日々の生活の中で方角を意識している者はいないだろう。
一日5回、メッカの方角を向いて祈りを捧げなければならないのだから、
どこにいようと正確に東西南北を把握している必要がある。
と、ここで考え込んでしまった。
日本から見て「メッカの方角」とはどっちだろう?
見慣れた世界地図で考えて「西」と答えると×である。
「日本から真東に進むと初めに到達する大陸はどこか?」という問に、
ほとんどの中学生は「北アメリカ」と答える。
正解は「南アメリカ」だ。
人間は球面上に住んでいることを忘れてはならない。
日本から真東に進むとチリに着くはずである。
同様に、日本から真西に進むと、
インドを経由してケニア、タンザニア辺りに到達する ことになるだろう。
方角を正確に地図上に表したのが「正距方位図法」である。
これで見るとメッカは日本から西北西というところか...。
今まで真西を向いて祈りを捧げていたイスラム信者の方がいらっっしゃれば、
今日からは少しだけ北寄りに方向を修正することをお勧めする。

ただ、一般的には、方角を聞いてピンとくる人は少ない
2010年06月23日
虫を愛でる文化
知らなかった。
アメリカでは虫を飼う習慣はないのだそうだ。
欧米人の耳には秋の虫の声も雑音にしか聞こえない、ということは知っていた。
それでも子どもたちは、日本と同じようにカブトムシやセミを捕まえるのだろうと思っていた。
ところが、アメリカでは虫好きは変わり者扱いされるというのだ。
20日付の朝日新聞「ひと」欄で、
ジェシカ・オーレックという若い女性の話を読んだ。
幼い頃から大の虫好きで、アメリカでは肩身の狭い思いをしていた彼女は、
来日して日本人の「昆虫愛」に感激し、映画まで作ってしまった。
彼女は言う。
日本で虫が愛される理由の根底には「もののあはれ」があると...。
「日本の人々は虫たちのはかない生命に美を感じることができる。
米市民にはその文化がない」
他の国はどうなのだろう。
虫の姿や声に季節の移ろいを感じ取るのは
日本独特の文化なのだろうか...。
古来、短歌や俳句には様々な虫たちが登場してきた。
チョウ、トンボ、セミ、キリギリス...。
ホタルやチョウはときに魂の象徴ともされてきた。
メジャーな昆虫ばかりではない。
一茶を始めとして、ハエ、蚊、ハチやアリなどを詠んだ句や歌は多い。
小さな虫たちへの温かい目が感じられる。
そう言えば、蛾や毛虫まで可愛がるお姫様の話もあった。
堤中納言物語の中の「虫めづる姫君」。
私は高校時代にこれに出会って、古典の魅力に取り憑かれたのだった。
アメリカでは蛾もチョウも「バグ」と一括りで扱うという話も聞いた。
対人間以上に「差別」がない。
それだけ虫に対する関心が薄いということだろう。
あるいは繊細さの問題か...。
もっとも、最近では日本でも、虫を極端に嫌う子どもが少なくない。
夜、小さな羽虫が入ってきただけで、男の子も大騒ぎだ。
チョウを怖がる女の子も珍しくない。
生活様式と共に、日本人の虫に対する意識も、徐々にアメリカナイズされてきたということか...。
夏休みの定番だった昆虫採集も、とんと見かけなくなった。
残酷だとか、自然保護だとかの声に押され、旗色が悪い。
子どもの昆虫採集くらいで破壊されるほど、自然はヤワではないという意見も多いのだが...。
虫を遠ざける背景には、前にも書いた異常な清潔志向もあると思う。
虫は汚い、不潔だ、すぐに捨てなさい...!
こうして虫から遠ざけられた子どもたちは、
はかない命に対する美意識とは無縁に育つ。
本来子どもは残酷なものであり、小さな虫を殺したり、
大切に飼っていたカブトムシを死なせてしまったりという体験を通して
命について学んできたはずだからだ。
一方でホタルを増やしたり、
オオムラサキの棲息地を整備しようという動きも盛んである。
しかし今本当に必要なのは、そういう特別な活動よりも、
身の周りの名もない虫たちとの距離を縮めることだと思う。
虫を愛でる文化、「もののあはれ」を解する心は日本人の宝である。
これを将来に渡って守り続けていくためには、
その伝統を自覚し、誇りを持つことが何より重要であろう。
今年はハルゼミの声を聞かない...。
行水の 捨て所なし 虫の声 (上島鬼貫)

※数年前、庭先に来たオオムラサキである。
アメリカでは虫を飼う習慣はないのだそうだ。
欧米人の耳には秋の虫の声も雑音にしか聞こえない、ということは知っていた。
それでも子どもたちは、日本と同じようにカブトムシやセミを捕まえるのだろうと思っていた。
ところが、アメリカでは虫好きは変わり者扱いされるというのだ。
20日付の朝日新聞「ひと」欄で、
ジェシカ・オーレックという若い女性の話を読んだ。
幼い頃から大の虫好きで、アメリカでは肩身の狭い思いをしていた彼女は、
来日して日本人の「昆虫愛」に感激し、映画まで作ってしまった。
彼女は言う。
日本で虫が愛される理由の根底には「もののあはれ」があると...。
「日本の人々は虫たちのはかない生命に美を感じることができる。
米市民にはその文化がない」
他の国はどうなのだろう。
虫の姿や声に季節の移ろいを感じ取るのは
日本独特の文化なのだろうか...。
古来、短歌や俳句には様々な虫たちが登場してきた。
チョウ、トンボ、セミ、キリギリス...。
ホタルやチョウはときに魂の象徴ともされてきた。
メジャーな昆虫ばかりではない。
一茶を始めとして、ハエ、蚊、ハチやアリなどを詠んだ句や歌は多い。
小さな虫たちへの温かい目が感じられる。
そう言えば、蛾や毛虫まで可愛がるお姫様の話もあった。
堤中納言物語の中の「虫めづる姫君」。
私は高校時代にこれに出会って、古典の魅力に取り憑かれたのだった。
アメリカでは蛾もチョウも「バグ」と一括りで扱うという話も聞いた。
対人間以上に「差別」がない。
それだけ虫に対する関心が薄いということだろう。
あるいは繊細さの問題か...。
もっとも、最近では日本でも、虫を極端に嫌う子どもが少なくない。
夜、小さな羽虫が入ってきただけで、男の子も大騒ぎだ。
チョウを怖がる女の子も珍しくない。
生活様式と共に、日本人の虫に対する意識も、徐々にアメリカナイズされてきたということか...。
夏休みの定番だった昆虫採集も、とんと見かけなくなった。
残酷だとか、自然保護だとかの声に押され、旗色が悪い。
子どもの昆虫採集くらいで破壊されるほど、自然はヤワではないという意見も多いのだが...。
虫を遠ざける背景には、前にも書いた異常な清潔志向もあると思う。
虫は汚い、不潔だ、すぐに捨てなさい...!
こうして虫から遠ざけられた子どもたちは、
はかない命に対する美意識とは無縁に育つ。
本来子どもは残酷なものであり、小さな虫を殺したり、
大切に飼っていたカブトムシを死なせてしまったりという体験を通して
命について学んできたはずだからだ。
一方でホタルを増やしたり、
オオムラサキの棲息地を整備しようという動きも盛んである。
しかし今本当に必要なのは、そういう特別な活動よりも、
身の周りの名もない虫たちとの距離を縮めることだと思う。
虫を愛でる文化、「もののあはれ」を解する心は日本人の宝である。
これを将来に渡って守り続けていくためには、
その伝統を自覚し、誇りを持つことが何より重要であろう。
今年はハルゼミの声を聞かない...。
行水の 捨て所なし 虫の声 (上島鬼貫)

※数年前、庭先に来たオオムラサキである。
2010年06月17日
「大人もハマる」だと?!
携帯電話で遊べる無料ゲームのCMがかまびすしい。
中でも最近多いのが、対戦型と呼ばれるものだ。
相手と戦って宝物を奪ったり、領土を奪って「天下統一」を目指したりするようだ。
見知らぬ参加者と仲間になって、敵と戦う場合もあるらしい。
隙をついて宝を盗み取るという、低俗な(?)ゲームのCMをよく目にする。
登場するの社会人ばかりで、
奪い取るときのスリルがどうとか、成功したときの快感がなんとか言っている。
そこにナレーションで「大人もハマる...」。
バッカじゃなかろうか...。
いい大人が何をやっているのか!
他にやることはいくらでもあるだろうに...。
そんなに暇なら新聞を読め!読書に浸れ!!
どうしてもやりたいなら、もっと頭を使うゲームをやれ!
「息抜き」と称す者もあるだろうが、
携帯の小さな画面に夢中になって、ピコピコやっている(音はしないのか?)姿は異様である。
何もしないでボンヤリしている方がよほどマシだ。
その方が頭も心もリフレッシュできると思うのだが...。
ゲームもマンガも、一つの文化として認められつつあるが、
私はそこまでの価値を認めていない。
今どき、時代遅れな意見であろうが...。
マンガには確かに読み応えのあるものも存在するが、
だからと言って、マンガすべてを容認する気にはなれない。
スーツでびしっと決めたビジネスマンが、
何の臆するところもなく、堂々と少年マンガ誌を読みふけっている光景は嘆かわしい。
子どもが対象だから「少年○○」なのである。
青年や壮年には、他に読むべきものがいくらでもあるはずだ。
ゲームやマンガの隆盛は、日本人の幼児化を世界にPRしているようなものだ。
CMの内容はもちろん誇張されたものだろうが、
身近に同様の人たちがいても、全く不自然でないと思えるところが恐ろしい。
こんな国は日本だけではないのか...。
大人としてのプライドとか品格とか教養とか...。
そんなことについて、じっくり考えてみるべき時代ではないだろうか。
怪盗ごっこにハマっている場合ではない...。

中でも最近多いのが、対戦型と呼ばれるものだ。
相手と戦って宝物を奪ったり、領土を奪って「天下統一」を目指したりするようだ。
見知らぬ参加者と仲間になって、敵と戦う場合もあるらしい。
隙をついて宝を盗み取るという、低俗な(?)ゲームのCMをよく目にする。
登場するの社会人ばかりで、
奪い取るときのスリルがどうとか、成功したときの快感がなんとか言っている。
そこにナレーションで「大人もハマる...」。
バッカじゃなかろうか...。
いい大人が何をやっているのか!
他にやることはいくらでもあるだろうに...。
そんなに暇なら新聞を読め!読書に浸れ!!
どうしてもやりたいなら、もっと頭を使うゲームをやれ!
「息抜き」と称す者もあるだろうが、
携帯の小さな画面に夢中になって、ピコピコやっている(音はしないのか?)姿は異様である。
何もしないでボンヤリしている方がよほどマシだ。
その方が頭も心もリフレッシュできると思うのだが...。
ゲームもマンガも、一つの文化として認められつつあるが、
私はそこまでの価値を認めていない。
今どき、時代遅れな意見であろうが...。
マンガには確かに読み応えのあるものも存在するが、
だからと言って、マンガすべてを容認する気にはなれない。
スーツでびしっと決めたビジネスマンが、
何の臆するところもなく、堂々と少年マンガ誌を読みふけっている光景は嘆かわしい。
子どもが対象だから「少年○○」なのである。
青年や壮年には、他に読むべきものがいくらでもあるはずだ。
ゲームやマンガの隆盛は、日本人の幼児化を世界にPRしているようなものだ。
CMの内容はもちろん誇張されたものだろうが、
身近に同様の人たちがいても、全く不自然でないと思えるところが恐ろしい。
こんな国は日本だけではないのか...。
大人としてのプライドとか品格とか教養とか...。
そんなことについて、じっくり考えてみるべき時代ではないだろうか。
怪盗ごっこにハマっている場合ではない...。

2010年06月13日
くたばれ清潔志向!
屋内の砂場が人気だそうだ。
ショッピングセンター内にある有料施設で、
砂には抗菌処理を施し、備長炭も敷いてあるという。
犬や猫の糞もなく安心とのこと。
こんな砂場で遊んで楽しいのか?
服を汚したり、耳に砂が入ったり、
雨の後にはベチャベチャになりながら団子を作ったり...。
それが砂遊びというものではないのか...。
東京ドームを思い出してしまった。
阪神戦を観に何度も行ったが、あの息苦しさには閉口する。
2階席から見るとまさに「箱庭」(もしくは野球盤)で、
簡単にホームランが出るのも納得だ。
一度だけ行った甲子園球場とは雲泥の差である。
あの広さ、開放感、夜空に上がる白球の美しさ...。
野球を観に来ているとうだけで幸せになれる球場だった。
雨や風、気温に左右されないのがドーム球場の長所だが、
それらの要素も含めて戦うのが野球の醍醐味であろう。
そもそも「野」ではないのだから、あれは別の競技である。
人工的な要素が増えるほど、管理されればされるほど、
「快適さ」と引き替えに楽しさ、面白さは減少する。
子どもの遊びも、スポーツも同じである。
だいたい、何から何まで「抗菌」なのは異常ではないか?
抗菌仕様にさえしておけば売れるということか...。
消費者の側が本当にそれを求めているのか、
うまく踊らされているだけなのか...。
手洗いやうがいが無意味だとは言わないが、
あまりにも神経質になりすぎているのではないか?
清潔に、清潔に...汚いものは遠ざけて...と、
子どもを「隔離」していたのでは免疫はできない。
ちょっとした発熱や下痢を繰り返すことで、子どもは逞しくなっていくのだ。
アレルギーやアトピー体質の増加も、
過剰な清潔志向と無縁ではないだろう。
今の日本は、抵抗力の弱い、ひ弱な子どもを育てることに懸命になっているようだ。共用のスリッパなど履けない、小さな虫一つに男の子まで大騒ぎする...。
砂場に犬猫の糞などあってはとんでもない、という発想になるのもむべなるかなである。
日本人は退化していくしかないのか...。

ショッピングセンター内にある有料施設で、
砂には抗菌処理を施し、備長炭も敷いてあるという。
犬や猫の糞もなく安心とのこと。
こんな砂場で遊んで楽しいのか?
服を汚したり、耳に砂が入ったり、
雨の後にはベチャベチャになりながら団子を作ったり...。
それが砂遊びというものではないのか...。
東京ドームを思い出してしまった。
阪神戦を観に何度も行ったが、あの息苦しさには閉口する。
2階席から見るとまさに「箱庭」(もしくは野球盤)で、
簡単にホームランが出るのも納得だ。
一度だけ行った甲子園球場とは雲泥の差である。
あの広さ、開放感、夜空に上がる白球の美しさ...。
野球を観に来ているとうだけで幸せになれる球場だった。
雨や風、気温に左右されないのがドーム球場の長所だが、
それらの要素も含めて戦うのが野球の醍醐味であろう。
そもそも「野」ではないのだから、あれは別の競技である。
人工的な要素が増えるほど、管理されればされるほど、
「快適さ」と引き替えに楽しさ、面白さは減少する。
子どもの遊びも、スポーツも同じである。
だいたい、何から何まで「抗菌」なのは異常ではないか?
抗菌仕様にさえしておけば売れるということか...。
消費者の側が本当にそれを求めているのか、
うまく踊らされているだけなのか...。
手洗いやうがいが無意味だとは言わないが、
あまりにも神経質になりすぎているのではないか?
清潔に、清潔に...汚いものは遠ざけて...と、
子どもを「隔離」していたのでは免疫はできない。
ちょっとした発熱や下痢を繰り返すことで、子どもは逞しくなっていくのだ。
アレルギーやアトピー体質の増加も、
過剰な清潔志向と無縁ではないだろう。
今の日本は、抵抗力の弱い、ひ弱な子どもを育てることに懸命になっているようだ。共用のスリッパなど履けない、小さな虫一つに男の子まで大騒ぎする...。
砂場に犬猫の糞などあってはとんでもない、という発想になるのもむべなるかなである。
日本人は退化していくしかないのか...。
