2010年06月16日

「物心」はついたか?

「物心がつく」という言葉がある。
これはいったい何歳くらいからだろう?

もちろん個人差はあるだろうが、私は一般的に3、4歳だと思っていた。
ところが、小学校中学年とか、高学年という意見もある。

辞書では、「物心」はこんな定義になっている。

 「人情・世態などを理解する力」(広辞苑)
 「人情・世態についての知識」(新明解)
 「人情や世の中のことがわかる心」(旺文社国語辞典)
 「世の中の物事や人間の感情などについて理解できる心。分別」(大辞泉)
 「世の中の物事や人情について、おぼろげながら理解・判断できる心」(大辞林)


広辞苑は味も素っ気もない。
期待した「新解さん」も大差なし。
「心」を「力」や「知識」と定義しているところが異色ではある。

他も似たようなものだが、大辞林の「おぼろげながら」は評価したい。
これがないと、かなり大人になってからでないと、「物心」がつかなくなってしまう。
大辞泉に至っては「分別」だ。
今の日本、成人になっても老人でも、分別のない輩がどれだけいることか...。

「物心がつく」を別に採り上げて説明しているのは2つだけだ。

 「幼児期を過ぎて、世の中のいろいろなことがなんとなくわかり始める」(大辞泉)

「いろいろなこと」「なんとなく」という曖昧さがいい。
そもそも、「わかる」「理解する」という表現に幅がありすぎるのだ。

そして「新解さん」。

 「子供が、世の中の裏表や、デリケートな人間関係、人の気持などについてわかり始める」(新明解)

う~ん。...「世の中の裏表や、デリケートな人間関係」...。
これはハードルが高い。
五十を過ぎた私は、はたして「物心」がついているだろうか...。

それはともかく、こう見てくると、
一般的な「物心がつく」の使用例と、辞書の定義が合っていないように思う。
よく目にするのは次のような使い方だろう。

 物心がついてから、飛行機に乗ったことはない。
 まだ物心がつかないうちに、家は人手に渡った。


両方とも、世の中のことがわかるかどうかより、
そのことを覚えているかどうか、記憶にあるか否かに力点が置かれているのではないか。
少なくとも私は、そういう観点からこの言葉を理解してきた。
ところが辞書にはそんな定義は一切ない。

いろいろ調べていたらYahooの辞書サイトでこんな例を見つけた。
和英辞典の英訳例である。

 「物心がつくようになってからずっと」→ ever since I can remember
                        (プログレッシブ和英辞典)


これが私の感覚に一番近い。
国語辞典も、「物心」は別にして、「物心がつく」の定義には一考の余地があると考える。









 


  


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:20Comments(0)ことば