2010年08月17日

幸福の定義

イソップ寓話に「町のねずみと田舎のねずみ」という話がある。
ご存知の方も多かろう。

町のねずみが田舎のねずみの家を訪ねる。
ところが、堅い木の実の食事や葉っぱの布団、静かすぎる環境が我慢できない。
町はもっと刺激的で素敵だと、田舎のねずみを誘う。

田舎のねずみが町へ行ってみると、
見たこともない御馳走がいっぱいある。
初めは少し羨ましかったが、
人間や猫の気配にびくびくしながらの生活はごめんだと思う。
田舎に帰ったねずみは、質素でものんびりできる暮らしがいいと実感する。

こんな内容だった。
都会暮らしと田舎暮らしの例えに、ときどき使われる話だ。

私は田舎暮らしがしたくて信州に来た。
新しさや便利さよりも、広さや自然環境を重視して山の方に住んでいる。
当然「田舎のねずみ」派だ。

お盆に千葉の実家に帰って、改めて感じたことがある。
81歳の母、この人はかなり「町のねずみ」派だということだ。
好奇心旺盛で、どこでも一人で出かけて行く。
だからこそ気持ちが若いのだろうし、
運転ができない身では田舎暮らしは大変だろう。
便利な今の住み家を離れるつもりはないようだ。

母は一人暮らしなので、防犯には気を使っている。
以前裏の家に強盗が押し入ったことがあり、セコムも取り付けた。
夜は真夏でも雨戸を閉め切り、エアコンで暑さを凌ぐ。

私が泊まった13日は珍しく涼しい夜だったので、
「窓を開けたままでいいのでは?」と提案したが、「田舎と違って物騒だから」と却下された。

東京から帰って来て、新幹線を降りたとたんホッとした。
やっぱり涼しい!
同じ気温でも暑さの質が違う。
夜、自然の風を感じながら眠ることができる幸せを痛感した。



今読んでいる本(加賀乙彦「不幸な国の幸福論」)にこんな一言があった。

 「幸福を定義してはいけない」

何が幸せかは、母と私の例を見るまでもなく、人それぞれ違って当然である。
誰かの、あるいは世間一般の幸福論に振り回される必要はない。
自分なりの幸福論を持つべきだ。
だが、自分が考える幸せの定義にも、とらわれ過ぎてはいけないということだ。

定義を明確にしてしまうと、仮に今の自分が理想的な幸福でも、
外的環境が少し変わっただけで不幸になる危険がある。
どうしても、マイナス面に目が向いてしまうのだ。
自分の力で変えられないものはありのままを受け入れ、
その時々で流動的に幸福の定義を変えられる柔軟さを持ちたい。


母はこの辺り、実にしたたかに賢く対処し、人生を楽しんでいるのかも知れない...。










※庭のサルスベリ、予想外のボリュームです。




  


Posted by どーもオリゴ糖 at 11:50Comments(0)よしなしごと