2010年06月18日

宴もたけなわ

「宴もたけなわではございますが...」

幹事からこの言葉が発せられたら、そろそろお開きにしたいのだと推測できる。
盛り上がっているときに水を差すようなことを言うのは無粋だという声も出そうだが、
実際には皆そろそろ潮時と思っている頃合いのことが多い。
「宴もたけなわ」はお決まりの、美辞麗句的なものだと思って来た。

ところが、そうでもないようなのである。

「たけなわ」は漢字では「酣」もしくは「闌」と書く。
語源は「宴(うたげ)なかば」あるいは「長(た)ける+成る」であるという。

辞書を引いてみると、
「物事の最も盛んな時」「行事・季節などが最も盛んになった時」といった説明が第一義である。
これしか載っていない辞書もある。
私が持っているイメージも同じであった。

だが、二つ目として、微妙にニュアンスの異なるこんな定義も載せているものが多い。

 「さかりを少し過ぎておとろえかけた時」
 「盛りが極まって、それ以後は衰えに向かう時」


直感としては、こちらの方が元々の意味だったのではないかと思う。
「旺文社国語辞典」では「酣」は「酒宴の最中」、
「闌」は「酒宴や物事の半分を過ぎたこと」と区別している。

上りつめればあとは落ちていくだけだ。
満開を過ぎれば、あっという間に花は散る。
絶好調の後には不調の時期が来る。
人生楽ありゃ苦もあるさ...ちょっと違うか...。

諸行無常、盛者必衰の理を知り尽くした上で、
だからこそ盛りを少し過ぎたところに美しさや趣、「もののあはれ」を感じる...。

そんなニュアンスのこもった素敵な言葉だと思う。
「花の色はうつりにけりな...」の歌も彷彿とさせるような...。

「新解さん」(新明解国語辞典)による「たけなわ」の説明には、その無常観が最も現れている。
括弧の中に注目。

 「(比較的短い期間しか続かない状態について)ピーク時の称」

楽しい時間はそう長くは続かないことを、みんなわかっているのだ。
祭が終われば、また厳しい現実が待っている。
楽しくも切ないひとときが「たけなわ」なのである。

してみると、冒頭の「宴もたけなわ」も少し捉え方が違ってくる。
ピークをやや過ぎたことを的確に判断した、機微をわかった発言ということになる。
ただ、それなら、「宴もたけなわでございますので...」とするべきだろう。
今度使ってみようか...。




































  


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2010年06月16日

「物心」はついたか?

「物心がつく」という言葉がある。
これはいったい何歳くらいからだろう?

もちろん個人差はあるだろうが、私は一般的に3、4歳だと思っていた。
ところが、小学校中学年とか、高学年という意見もある。

辞書では、「物心」はこんな定義になっている。

 「人情・世態などを理解する力」(広辞苑)
 「人情・世態についての知識」(新明解)
 「人情や世の中のことがわかる心」(旺文社国語辞典)
 「世の中の物事や人間の感情などについて理解できる心。分別」(大辞泉)
 「世の中の物事や人情について、おぼろげながら理解・判断できる心」(大辞林)


広辞苑は味も素っ気もない。
期待した「新解さん」も大差なし。
「心」を「力」や「知識」と定義しているところが異色ではある。

他も似たようなものだが、大辞林の「おぼろげながら」は評価したい。
これがないと、かなり大人になってからでないと、「物心」がつかなくなってしまう。
大辞泉に至っては「分別」だ。
今の日本、成人になっても老人でも、分別のない輩がどれだけいることか...。

「物心がつく」を別に採り上げて説明しているのは2つだけだ。

 「幼児期を過ぎて、世の中のいろいろなことがなんとなくわかり始める」(大辞泉)

「いろいろなこと」「なんとなく」という曖昧さがいい。
そもそも、「わかる」「理解する」という表現に幅がありすぎるのだ。

そして「新解さん」。

 「子供が、世の中の裏表や、デリケートな人間関係、人の気持などについてわかり始める」(新明解)

う~ん。...「世の中の裏表や、デリケートな人間関係」...。
これはハードルが高い。
五十を過ぎた私は、はたして「物心」がついているだろうか...。

それはともかく、こう見てくると、
一般的な「物心がつく」の使用例と、辞書の定義が合っていないように思う。
よく目にするのは次のような使い方だろう。

 物心がついてから、飛行機に乗ったことはない。
 まだ物心がつかないうちに、家は人手に渡った。


両方とも、世の中のことがわかるかどうかより、
そのことを覚えているかどうか、記憶にあるか否かに力点が置かれているのではないか。
少なくとも私は、そういう観点からこの言葉を理解してきた。
ところが辞書にはそんな定義は一切ない。

いろいろ調べていたらYahooの辞書サイトでこんな例を見つけた。
和英辞典の英訳例である。

 「物心がつくようになってからずっと」→ ever since I can remember
                        (プログレッシブ和英辞典)


これが私の感覚に一番近い。
国語辞典も、「物心」は別にして、「物心がつく」の定義には一考の余地があると考える。









 


  


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2010年06月15日

文のイロハ

文章がうまくなるためには、当然のことながら、その一歩前が大切だ。
すなわち一つ一つの文がしっかりしていなくてはならない。
別に名言や名文である必要はない。
日本語として正しい文、読む者に誤解を与えない文であればいいのだ。

細かいことを言えばキリがない。
主述の対応、修飾部の扱い、言葉の選び方、文末表現などなど...。

しかし、文の第一歩は何と言っても句読点の扱いだろう。
小学校低学年以外は句点(。)は心配ないので、主に読点(、)の使い方になる。

と思っていたら、5月から入塾した中3生が「。」のない文を書く
「、」もないので、どこで切ったらいいか、こちらが判断しなくてはならない。
今までずっとこれで通してきたのだろう。
当然のように、英文にもピリオドがない...。

数感覚は優れたものを持っているのだが、言語力に大きな問題がある。
漢字や送り仮名の間違いも多いし、何が言いたいのかわからない文章を書く。
そこで彼には、算数や数学の解法を文で説明する、という課題を多くさせている。
自分の考えや思いを言葉にする、その難しさを痛感しているようだ。

本題に戻る。
読点の打ち方に厳密な決まりはない。
読み手のことを考えて打てばいい。
読みやすいこと、誤解を生まないことが基本だ。
少なすぎくても、多すぎてもいけない。

生徒に読点の役割の重要性を説くとき、よく例に挙げるのがこんな文だ。

 ①昨日、父と母の墓参りに行った。
 ②昨日父と、母の墓参りに行った


①では両親とも亡くなっているが、②では父親は健在であることがわかる。
英語なら主語や修飾関係が変わってくるので問題ないが、
日本語では、読点を打ち間違えると大変なことになる。

自分自身の文については、少々読点を多用しすぎではないかと分析している。
特にブログでは、つい読みやすさを優先して、多くの「、」を付けてしまう...。

先日、自治会の規約をwordで打ち直す作業に携わった。
主語の後に必ず読点が入るのが煩わしく、一部勝手に削ってしまった所もある。

憲法を初めとして、法律や規約にはこういう書き方が多い。
とにかく誤解のないように、正確さを追求した結果であろうが、
あまりに機械的な読点の打ち方もどうかと思う。
英語ならよほどの意図がない限り、主語の後に「,」など打たないのではないか...。
















 


  


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2010年06月10日

「トン」の不思議

1mの1000倍は1km、1gの1000倍は1kgだ。
k(キロ) は1000倍を表す接頭語である。

kのさらに1000倍はM(メガ)だが、1000kmを1Mmとは言わない。
リットルやアンペアも同じだ。

質量に関しても「1Mg」はないが、代わりに1000Kgを1t(トン)と言う。
考えてみれば不思議な話だ。
国際単位系では、統一性を重視する観点から「Mg」を推奨しているそうだが、
慣習的に「t」の使用も認めているようだ。

1mmや1cm、1mgや1kgはメートル法の基準に沿っている。
長さの基本であるm(メートル)や、重さの基本のg(グラム)に、
m(ミリ)、c(センチ)、k(キロ)といった接頭語が付いて単位となっているからだ。

ところが「t」だけは、質量の単位なのに「g」が付いていない。
メートル法の単位の中では極めて異色な存在である。

メートル法の「t」は、正式には「メトリックトン」あるいは「仏トン」と言うらしい。

「t」はもともとヤード・ポンド法の単位だっだが、
「k」以上の接頭語がなかった時代に、メートル法に採り入れられたようだ。

因みに、イギリスで使っている「英トン」は約1016kg、
アメリカの「米トン」は約907kgで、メートル法のそれとは微妙なズレがある。
ここに「t」を採用したときの事情が伺える。
1000kgに比較的近いということで、表舞台に出る幸運を得たのであろう。

しかし、質量の場合だけ、kの1000倍にあたる単位が設定されているのも特異なことだ。
長さ(距離)にはkmの上の手頃な単位はないので、地球の周囲の長さや
太陽までの距離でさえ、kmを使って表現せざるを得ない。
その上は一挙に「光年」(約9.42×10の12乗km)になってしまう...。

これは、質量を表す単位には、それだけ大きいものを用意する必要があったということだろう。
1000kmの1000倍の距離はなかなかピンと来なくても、
1000gの1000倍の物は比較的身近にあったということだ。
大木でも石でも、自然の中にそういう存在があったからこそ、
「t」の必要性が生まれたのであろう。

それでもなお、統一性を図るために、「t」よりも「Mg」を推したいA型の私である。
















 








  


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2010年06月08日

意味のない漢字練習は止めよ!

塾で中学生が、空いた時間に学校の宿題をしていることがある。
多いのは漢字の書き取り練習だ。
「白文帳」と呼ばれる縦書きのマス目入りノートに、ひたすら同じ漢字を書いている。

遠い昔、私も、一つの漢字だけを一行に繰り返し書かされた経験がある。
そのうち面倒になって、偏だけをまとめて先に書いたりしていた。
あれで力がついたとは到底思えない。

さすがにそういう例は少なくなったが、精々熟語レベルでの繰り返しが主流だ。
生徒に確認してみると、案の定、意味は全くわかっていない。
わかろうとも思っていない。
ただ指示された量をこなすだけ、ページを埋めるだけの作業に成り下がっている。

意味が推測できる固まりで書き写す課題にすべきではないか。
その分、一行での反復回数は減るだろうが、
「含蓄」を何度も書くより、「含蓄のある言葉」を2回書いた方がよほど身につくと思われる。
十年一日のごとき漢字練習の方法は、ぜひ見直してもらいたい。

余談だが、長野市の中学校で使われている漢字のテキスト、
ずっと前から気になっている間違いが未だに直っていない。
「狂」という字の用例にこんな文があるのだ。

 「車は走る狂器だ」

「凶器」でしょう...。
間違って覚えてしまう子が少ないことを願う。

29年ぶりに常用漢字が増えるという。
パソコンや携帯電話の普及で難しい字も簡単に「打てる」ようになったことを踏まえ、
「鬱」「彙」「蓋」など画数の多い字も追加されることになった。

賛否両論あるようだ。
賛成派は思考力、表現力が豊かになると歓迎し、
反対派は子どもの負担(特に入試)が増えることを危惧している。

文化審議会答申の前文にはこうある。

 「すべての漢字を手書きできる必要はなく、それを求めるものでもない」

ところが、どの漢字が「手書きできなくてもいい」のかは示されていない。
ということは、大学入試に向けてはすべての漢字を書けるようにしておかなければならない。
これは大変だ...。

常用漢字表を2つに分けて、「読めればいい」漢字を別に示すべきである。
いくら前文で謳っても、そこを明確にしなくては意味がない。

今回の改訂は、今まで新聞などでは平仮名にせざるを得なかった、
「憂うつ」や「ごう慢」などの不自然な表記が解消されるという点では評価したい。

ただ、常用漢字が増えたからと、必要以上に漢字を多用することは避けたいものである。
知っている漢字でもあえて仮名にする方が上品なときも多いのだ。
昔誰かが言っていた言葉を肝に銘じている。

 「バカの文章は漢字が多い」 












  


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2010年06月06日

「右」ってどっち?

「右」とは何か説明してください、と言われたらどうしますか?
「箸を持つ方が右」では、左利きの人に対して失礼です。

では、言葉の権威である辞書では、いったいどのように「右」を定義しているのでしょう?

一番メジャーだと思われるのが、「広辞苑」や「大辞林」でも採用しているこんな説明。

 「北を向いたとき、東にある側」

なるほど、方角を使うわけですね。
英英辞典もいくつか調べましたが、すべてこれと同じでした。

一方、方角を使っていながら微妙に異なる定義の辞書も...。

 「東を向いたとき、南にある側」

「大辞泉」や「新選国語辞典」(小学館)ではこれです。
多少なりとも個性を出そうとしたのでしょうか?
あるいは、日の出の方角である東が北よりもわかりやすいと判断したのか...。

ただ、いずれにしても、これらの説明は北極点や南極点では役に立ちません。
まあ、そんな特殊な状況で「右」にこだわる人もいないでしょうが...。

なお「大辞泉」には、上記の説明の後にこんな記述もあります。

 「大部分の人が、食事のとき箸を持つ側」

「大部分」で濁しましたね...。

さて、わが愛しの「新明解」ではどうなっているか?
...期待通りに、他とは全く違う定義でした。

 「アナログ式時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示の有る側。
  〔「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致〕」


新解さん、面白いばかりでなく、やるときゃやりますねえ。
これが一番、文句の付けようがないように思います。
やればできる子なんですよね...。

他にもっといい定義をご存知の方、あるいは見つけた方は教えてください。
もちろん、オリジナルも大歓迎です!









  


Posted by どーもオリゴ糖 at 07:36Comments(0)ことば

2010年06月05日

「新解さん」は妥協しない!

昨日の続き。
私が見つけた「新解さん」です。

今回は「広辞苑」(第四版)の解釈も載せてみました。
常識的、一般的、無難な「広辞苑」との違いを比べることで、
新解さんの冒険性を実感していただきたいと思います。

【にくい】<広辞苑>①にくらしい。気に入らない。
             ②腹立たしい。癪にさわる。けしからぬ。
             (以下略)

      <新明解>①相手(の存在)がたまらなくいやで、出来るなら抹殺したいくらいだ。
             (以下略)


気持ちはわかりますが、かなり物騒です。
警察沙汰にならなければいいですが...。

ついでに新解さんの【にくい】の項目の中に、こんなのも見つけました。
  
     「憎からず思う」 出来るならかわいがってやりたいとさえ思う。  
               相手に対する好感が、好感以上に発展しそうな状態にあることを指す。
 

「恋の予感」でしょうか...?
広辞苑では【憎からず】が独立していますが、
「愛情がなくはない」「かわいい」程度の説明で、何の予感もしません。

【人情】<広辞苑>①自然に備わる人間の愛情。いつくしみ。なさけ。
            ②人心の自然の動き

    <新明解>①人ならば、だれでの持っているはずの、心の動き。
           同情・感謝・報恩・献身の気持のほかに、
           同じことなら少しでも楽をしたい
           よい方を選びたい、よい物を見聞したい、十分に報いられたい
という欲望など。 


新解さんの1行目はほぞ広辞苑と同じですが、2行目以降が秀逸!
欲望の奥深くまで踏み込んだ解釈...さすがです。

因みに、新明解の【人情】の②はこうなっています。

         ②男女間の愛情。「まだ--を解しない」

こんなのは広辞苑には出てきません。
このこだわりが新解さんの真骨頂ですね。

【人生経験】<広辞苑>記載なし

        <新明解>表街道を順調に歩んできた人にはとうていわからない
              実人生での波瀾に富み、辛酸をなめ尽くした経験。
             〔言外に、真贋の見極めのつく確かさとか、修羅場をくぐり抜けて来た人たちの 
              一大事に対する覚悟の不動とかを含ませて言うことが多い〕


何があったのでしょう?
ずいぶんと逞しい人生を送って来られたようです。
やはり人が育つ上で苦労は欠かせないということですね。
「とうていわからない」が効いています。

またちょこちょこご紹介しますね。





        


Posted by どーもオリゴ糖 at 14:36Comments(0)ことば

2010年06月04日

「新解さん」を知っていますか?

一時期結構ブームになったそうで、関連のサイトもいくつかあります。
ご存知の方も多いでしょうが、ナガブロの検索で引っかかって来なかったので、
若い人にもお勧めすべくご紹介することにしました。

それは三省堂の「新明解国語辞典」

知る人ぞ知る異色の存在です。
普通、辞書というものは正確さを第一に、
徹底的に感情を廃した客観的な記述を心がけるものでしょう。
その分、当たり障りのない無味乾燥な表現になるのもやむを得ません。

この辞書は全く違います。
もっとわかりやすく、生活に即した説明にしようとした意気込みはわかります。
きわめて冒険的な辞書なのです。
その結果、「主幹」の山田忠雄氏の独断・偏見・好き嫌い等が盛りだくさんの、
実に「読んで楽しい」辞書に仕上がったというわけです。

赤瀬川源平著「新解さんの謎」で、そのユニークさが広く知れ渡りました。
今日は、その本にも代表例として挙げられている、
新明解ならではの定義、解釈をご紹介します。
いわば入門編なので、すでによく知っているという方はパスしてください。

なお、新明解の中でも一番面白いという噂の「第四版」がたまたま家にあったので、
以下の記述はその版によります。

 「動物園」・生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫
       などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。

さすがにクレームが多かったのか、第五版以降はここまでの表現にはなっていません。

 「恋愛」・特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒にいたい、出来るなら合体したい
      という気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・
      (まれにかなえられて歓喜する)状態。

「合体」って...ガンダムか...。
「釣りバカ日誌」での用法は、この辞書が元に違いありません。

「常にはかなえられないで」や「まれにかなえられて」に、山田氏の半生が感じ取れます。
実に読み応えがありますね。

さて、では「合体」はどう書いてあるか...。

 「合体」・②「性交」の、この辞書でのえんきょく表現。

そんなのあり...?!

こうなれば次は「性交」です。

 「性交」成熟した男女が時を置いて合体する本能的行為。

ここで「合体」を使っては、説明になっていないのでは...?

それよりも注目は赤字の部分です。
未成熟の男女によるものや、時を置かない行為は「性交」ではないのです!
皆さん、気をつけましょう...(何に?)。

今日は有名なものばかりでしたが、
次回は、私が見つけた味のある語義をご紹介する予定です。
お楽しみに...。















   


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:24Comments(0)ことば

2010年06月02日

遠くで汽笛を聞きながら/この言い方は正しいのか~その7~

今回は、以前書いていたブログでも話題にした表現です。

「遠くで汽笛を聞きながら」という曲があります。
かつてのアリスの名曲ですね。
私も大好きで、学生時代よく口ずさみました。

で、曲はいいのですが、このタイトルが気になるんです。
遠く」はおかしくないでしょうか...。

他に「遠くで」を使った例を見てみましょう。

 1.遠くで見守る、遠くで無事を祈る
 2.遠くで稲妻が光る、遠くで犬が吠える


1の例では、対象となる誰かのことを、その人から遠い所で見守ったり祈ったりしています。
「遠く」の起点は「誰か」で、終点が話者のいる所ですね。
この「遠くで」は「遠くから」に言い換えることができます。

一方2では、話者から遠く離れた所で光ったり吠えたりしていて、
「遠く」の起点が話者と考えられます。
この場合、「遠くから」にするとおかしいですね。
「犬が吠える」方は「遠くから」でもありですが、
そうなると意味が変わってきます。

さて、「遠くで汽笛を聞きながら」はどちらでしょう?
1の意味ならいいんです。
汽笛が鳴っていて、それをそこから離れた所で聞いている。
「遠くから聞きながら」という状況です。

でも、歌詞の内容から考えても、この解釈には無理があるような気がします。
やはり、話者のいる所を起点としていると考えるべきでしょう。
毎日の生活の場から遙か彼方に汽笛を聞き、
ノスタルジックな思いに駆られながら、それでも前向きに「生きていきたい」と歌っているのです。

そうすると、2で挙げた例のように、
遠く離れた場所で「○○が××している」という形にならないと成り立たないと思うのです。
この状況で言えば「遠くで汽笛が鳴っている」ですね。
つまり、「遠くで」と「汽笛を聞きながら」は共存できない!ということになります。

どちらかを生かすなら「汽笛を聞きながら」の方でしょう。
すると「遠く汽笛を聞きながら」が最も自然な表現ということになります。
「遠くに北アルプスを望む」「遠くにノロシを確認する」などと同じ使い方です。

以前のブログには、「遠くに汽笛を聞きながら」だとなんだか軽い感じがする、
というコメントを頂きました。
私も肯くところがありますが、「遠くで~」にはどうしても抵抗があるのです。

皆さん、どう思われますか?











  


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2010年05月29日

「沿岸」ってどこ?

中1の地理で、「(  )沿岸の国々」の(  )に入る言葉を「地中海」と答える問題があった。
ある子が「ヨーロッパ」と書いていたので、「沿岸」の意味を辞書で引かせた。
この(  )に入るのは海や湖以外にあり得ないと思ったからだ。

調べた生徒の答は「川・海・湖の陸に近い部分」

ん?ちょっと待って...。
これだと海の中に国があることになってしまう...。

自分でも調べたら、生徒が答えたのは二番目の意味で、
第一義は「川・海・湖などに沿った陸地の部分」となっていた。
私はこの意味のつもりだったのだが、
なるほど「沿岸漁業」と言うときは二つ目の方だ。
同じ言葉で両方を指すなんて紛らわしい限りである。

「沿道」というのは「道に沿った部分」のことだ。
すると「沿岸」は「岸に沿った部分」
陸側と海側の両方があり得るということか..。

念のため「岸」を引いてみると、「陸地が川や海などの水面と接している所(に沿った土地)」とある。
う~ん、これにも「沿った」が出てきた。

まあ、「沿岸」という字面からして、もともとは陸の方を言ったのだろう。
少なくとも私の感覚はそちらを支持する。

辞書をめくっていたら「沿海」も出てきた。
こっちは海のことだろうと思ったら、
第一義が「海岸に沿った陸」で、二番目が「陸に沿った海域」だった...。

ますますわけがわからない。








  


Posted by どーもオリゴ糖 at 11:14Comments(0)ことば

2010年05月28日

この言い方は正しいのか?~その6~

これはずっと間違いだと思っていたのに、
先日何かのテレビ番組で誤用ではないと言っていたものです。

 「被害を被る」

文字にしてみると違和感が増しませんか?
「白い白馬」や「頭痛が痛い」のような重複表現ではないのでしょうか?

「被害」を使うなら「被害に遭う」
「被る」を生かすなら「損害を被る」でしょう。

ただ、最近では辞書の用例にも「被害を被る」が載っているようです。
愛用の「新明解」にはありません。
ところが「被害を受ける」はあるんです。
意味に「損害・(危害)を受けること」とあるのだから、これも重複しているのでは...?

と思ったら、続けて「また、その損害」という定義もありました。
こちらを採用しているんですね。
それなら「被害を被る」もおかしくないということになりますが...。

どうもスッキリしません。
皆さんはどう思われますか?







  


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:25Comments(0)ことば

2010年05月26日

この言い方は正しいのか?~その5~

今回は「綿半ホームエイド」稲里店で見かけた日本語。
出入り口の万引き防止ゲートに、こんな一言が貼ってありました。

 「この機械はメーカーの安全性が確認されていますが...」

ん...?
一瞬何を言っているのかわかりませんでした。
「メーカーの安全性」???

これでは「この機械を作ったメーカーは安全な存在だ」と言っていることになります。
危険なメーカーってどんなの...?

機械の安全性が確認されているんですよね。
だったら「この機械はメーカーにより安全性が確認されていますが...」でしょう。

街中の看板や表示を注意して見ていると、結構楽しめますよ...。










  


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:23Comments(2)ことば

2010年05月23日

「誕生」と「生誕」

「Google」の看板ロゴに懐かしの「パックマン」が登場している。
今日の深夜までの限定だそうで、キーボードの矢印キーで実際に遊べる。

思えば社会人に成り立ての30年前、昼休みに喫茶店でよく遊んだものだ。
インベーダーゲームは今一だったが、このパックマンは大好きで100円玉をつぎ込んだ。
もちろん久々にやってみたが、小さなキーではどうも勝手が悪い。
普段ゲームなどしないので、「十」ではなく「┴」に配置された矢印が扱いにくいのだ。
下に行くつもりが左に行ってしまったりして、あっという間にGAME OVERになってしまった。

このパックマン復活を紹介した記事(朝日新聞)の中に、
前回ちょっと話題にした「誕生」「生誕」が両方出てきた。

 「30年前の1980年5月22日に誕生したゲーム「パックマン」が、...」
 「同サイトが生誕30年を祝って、...」


私の認識では、「誕生」は今生きている人に、
「生誕」はすでに亡くなった人(特に有名人)に使う言葉だと思っていた。
日常的によく使われるのは「誕生」だろう。
毎年祝うのは「誕生日」であり、「誕生石」「誕生花」などもある。
一方「生誕」は「太宰治生誕100年」「坂本龍馬生誕の地」などでお馴染みだ。

ところが、辞書にはそんな定義は載っていない。
Yahoo の辞書機能では両者は同じ意味になっている。
ユニークな定義で知られる「新明解」では次のような記述だ。

 「誕生」(胎生動物が、また広義では卵生動物が卵からかえって)生まれること。
     (新しく制度・組織・施設などが)出来る意にも用いられる。


狭義では胎生動物だけに使われるなんて知らなかった...。

 「生誕」(第一級の学者・宗教家・芸術家などが)生まれること。

坂本龍馬はどこに含まれるのか...。

ということは、「第一級の学者」などには生前でも「生誕」を使っていいのだろうか。
もっとも、死後に業績が認められるということも多いので、不都合は少ないのかも知れない。

パックマンの記事に戻る。
私の感覚では今は廃れてしまったパックマンの方に「生誕」を、
現在隆盛のGoogle に「誕生」を用いるべきではないかと思う。

「新明解」の定義に基づくなら、記者の価値観が反映されていることになる。
Google を「第一級」と考えて「生誕」という尊称を与えたのだろうか...。

謎は解明されないままである。







  

  


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2010年05月21日

「生前」ということば

新聞を読んでいてふと思った。
亡くなった人が生きていたときのことをなぜ「生前」と言うのか?
「生きていた前」では意味が通じない。
「死後」の反対で「死前」なら納得できるが、そんな言葉は聞いたことがない。

同じことを考えた人は多いらしく、検索したらいろいろな意見があった。

「死んでから別の人生が始まる。死こそ新しい生の始まり。」という説。
仏教の輪廻思想のようなものか。
仏となって真の「人生」が始まるということか...。

「前(さき)の生」の意味だとする説。
死を境に時代を分け、「前」の生きていた時代をこう呼ぶという。
後の「前」から「生」へ、漢文のように戻って読むわけだ。

一番腑に落ちるのは、「死後」という言葉の
「死」と「後」それぞれの対となる字を単純に並べただけという考え方だ。
「死」の反対の「生」+「後」の反対の「前」で「生前」である。

ところが、同様の例を探しても、そんな反意語の作り方は他には見つからない。
「円高」と「円安」、「表面」と「裏面」のように、
一字だけを反対の意味の漢字に換える例がほとんどだ。
「近接」と「遠隔」、「優良」と「劣悪」、「賢明」と「暗愚」などは
近い例かも知れないが、これらはもともと似た意味の漢字を並べた熟語である。
「死後」のように、前の字が後の字を修飾している熟語(「死」の「後」)では、
そんな反意語は皆無である。

結局、よくわからないままだ。

「生前」の反意語は普通に考えれば「生後」だろう。
しかしこの言葉は全く違う意味になる。
「生後」は「生まれて後」のことであり、「生後3ヶ月」のように使う。

それなら「生前」は「生まれる前」になって、母親の胎内にいるときのことになってもよさそうだ。
「紀元前」のように、「生前1ヶ月」は生まれる1ヶ月前を指すのなら論理的だが、
そんな言い方は聞いたことがない。
「生前」はあくまで「死後」の対義語なのである。

生や死に伴う言葉には、不思議なものがまだありそうだ。
仏教用語がかなり影響しているのではないか。
「誕生」「生誕」の使い分けも興味深いテーマなので、また考えてみたい。



























  


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2010年05月20日

なまえ随想~その2~

昨日の続き。

女の子の名前に「子」が付かなくなって久しい。
私の同世代は、ほとんどの女子が子」という名前だった。
他には恵」美」があった程度で、たまに見かける「早月(さつき)」「香織(かおり)」などは
かなりオシャレに感じたものだ。
今では当たり前のひらがなだけの名前もずいぶん珍しかった。

子」が廃れたのはいつ頃からだろう。
私の子どもの世代(昭和59年~平成元年生まれ)になると、東京ではほとんど「子」がなかったが、
長野に来てみたら同級生や姉妹にまだあった。
最近では長野でもほとんどお目にかかれない。
たまに「子」があると、逆に新鮮なくらいである。

そう言えば、親の名から一字を取って子どもに命名する習慣もなくなりつつある。
ときどき塾の生徒にそんな例を見かけると、そこに込められた親の思いを聞いてみたくなる。
何か強い信念をお持ちなのではないか...。

子」が減少した頃から、子どもの名前には音(オン)が重視されるようになったように思う。
わが家でも命名の際に、まずは聞いたときの語感を優先して候補を挙げ、
後からその音に合う漢字を選んだ。
一応字画も気にしたし、漢字の意味も念入りに調べたが、取っかかりは音であった。
最初の子に「世界で通用するように」と、そのまま英語に採り入れても違和感のない名前を付けたので、あとの2人にもその方針を貫いた。
本人たちはどう思っているか知らないが、親としては今でも音、漢字ともに気に入っている。

最近の子どもの名前には読めないものが結構ある。
「週刊長野」に載っている誕生祝いのコーナーを見ては、驚いたり感心したり...。
入塾の際に書いてもらう申込書にも「ふりがな」の欄は欠かせない。
やはり音を優先してあとから漢字を考えるため、当て字的なものが多くなっているのだろう。
まあ、認められた漢字さえ使っていれば読み方は自由に決められるのだが、
初対面の人に一々読み方を説明しなければならないのでは大変だろうと想像する。

もう一つ、お節介を承知の上で言うと、女の子の名前にあまりに可愛らしさや可憐さをイメージした名前を付けると、その子が年を取ってから「名前負け」しないだろうか。
みんながそうならいいか...。
あ、ウチの子もそうだった...。

名前の音の響きが、その子の性格に影響を与えるのでは?と考えたことがある。
特に母音である。
最近読んだ外山滋比古氏の本に、こんな記述があった。

 「由来、女子の名には五十音のイ列とウ列の音の組み合わせで可憐さを表象していた。
  ゆき子、きみ子、ゆみ子などである。」(from 外山滋比古「日本語の作法」)


近年はア列の音に人気があるという。
かつては可愛らしい女性になってほしいという願いで小さな母音が好まれたのが、
戦後、明るく伸びやかであってほしいという気持ちから、大きな母音を多用する名前が増えたとしている。
因みにア列の音は、昔は「太め」を暗示していたそうである。

これは親の側の願いであるが、その名で呼び続けることで子どもの側も影響を受けるのでは?と思う。
生まれてから何千回、何万回と呼びかけられる音韻が、性格の形成に無関係とは思えないのだ。他の条件が同じであれば、ア列の音が多い子どもの方が明るく大らかに育つのではないだろうか。

そんな研究が今までにあるのかどうか、ちょっと調べてみたい。









  


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2010年05月19日

なまえ随想~その1~

子どもの名前を付けるとき、かつては言葉や漢字の意味に重きを置いていた。
従って、性別によって使われる漢字がだいたい決まっていた。
「勇」「剛」「武」「毅」など、たくましさを感じさせる漢字は男の子。
「美」「香」「愛」「麗」など、美しさや優しさを漂わせる漢字は女の子...。

その名を付けられた子どもの側も、多かれ少なかれ、名前の持つ意味を意識していたように思う。
親の期待が込められた名前に恥じないような人生を送りたい、と考える者も多かった。
そこまで深刻に考えなくても、たとえば「孝行」という名前だったら、
「俺は名前どおりに親孝行しているだろうか?」と振り返ることもあっただろう。
「良」「善」が入っていたら悪事には決して手を染めないでおこうと自戒したり、
「志」「雄」があれば夢を大きく持って生きようと決意したりするのも自然な流れである。
これも「言霊」の一つの例と言えよう。

「名前負け」という言葉があるのも、それだけ名前の意味を意識していた証だろう。
ただ、これには本人の努力では如何ともしがたい面もあるので気の毒ではある。
名前に「美」「剛」が入っているのに外見がそれに伴わないことで、
コンプレックスを持っている人も少なからずいると思う。
まあ、本人が思っているほど、周りは意識していないことが普通だが...。

実は私も自分の名が好きではない。
男の名前としてあまりにも弱々しい感じがするのだ。
波風を立てぬように平々凡々と...というメッセージしか聞こえてこないのだ。
書いたときの印象も、いかにも細い!

自分の外観が名前の印象どおりではないか、というコンプレックスがあるのでよけいにそう思う。
だからこそ、内面はそうではない!という信念を持って生きてきたつもりだ。
世の中に流されまい、俺だけは違う、と意地を張ってきた面もある。
人から「変わっている」と言われることを好み、
小さな幸せより波瀾万丈の人生に憧れてきた...。

こう考えてみると、今の自分があるのも、親が付けてくれた名前のお蔭だと言える。
それを反面教師として生きてきたのだ。

名前は一生付いて回るものだけに、人に与える影響は大きい。
次回はその音(響き)について書こうと思う。





  


Posted by どーもオリゴ糖 at 13:03Comments(2)ことば

2010年05月17日

この言い方は正しいのか?~その4~

またも信濃毎日新聞の記事からである。

昨日のスポーツ欄。
我らが阪神タイガースが辛勝したことを伝え、藤川球児の言葉を紹介しているくだり...。

「今季初の失点を許した守護神は...」

「失点」とは言うまでもなく「点を失うこと」だ。
「失点を」をと来たら「喫した」、あるいは単純に「した」でなければならない。
「許した」を生かすなら「得点を許した」、もしくは「点を許した」であろう。

この「失点を許す」という言い方はけっこう実況放送でも耳にする。
その度に気になって仕方ない。
おそらく「失点は許されません」という受け身形と混同しているのではないか。

「失点は許されません」ならわかる。
この場合の「許す」の主体はファンであり、監督やコーチである。
彼らが、「点を失うこと」を許さないのだ。
しかし「失点を許す」の主体(主語)はあくまで投手、あるいはチームであるはずだ。
相手に「許す」のは「点を入れること」であり、それを失うことではない。

瞬時に言葉を選ばなければならない実況放送なら、まだ大目に見ることもできるが、
活字に残る新聞記事には正しい日本語表現を要求したい。








  


Posted by どーもオリゴ糖 at 13:49Comments(0)ことば

2010年05月16日

「原因」のふりがな

中3の生徒が、その日の中間テストの出来を話し合っていた。
国語のテストで、漢字の読みに「原因」というのがあったらしい。
中3のテストにしては簡単すぎないか?と思ったのだが、話を聞いていると一人が
「げいいん」と書いたという。
もう一人は「げんいん」と答えたそうで、どちらが正しいかわからないようだ。

もちろん「げんいん」が正解である。
「原」を「げい」と読む例など聞いたことがない。
ただ、音を聞いたり発したりするときは「ん」をあまり意識していないのかも知れない。
「い」の方が言いやすいのかも...。

小学生にはこの間違いが結構ある。
「全員」が「ぜいいん」になったり、「店員」を「ていいん」と書いたり...。
それには慣れていたが、まさか中3がそんな間違いをするとは思ってもいなかった。

文頭に「なので」「なのに」を使う。
「やはり」を「やっぱ」、「いやだ」を「やだ」と書く。
「見てる」(正しくは「見ている」)「~けど」(「~けれど」)などは、
ごく当たり前の書き方になっている。
話し言葉をそのまま書き言葉に使うことに全く抵抗がないのだ。

やはり書くことを柱に据えた「言語力」を養成しなければいけない。
本離れ、メールの普及などの現状を見ていると、放っておいて自然に育つ力ではないと思う。
学校の国語の授業にも、今のところあまり期待できないのだ。

因みにATOKで「げいいん」と打ってみると、変換候補として「鯨飲」の次に「原因」も出てくる。
「「げんいん」の誤り」という注釈つきである。
それだけ間違って覚えている人が多いということか...。
日本語変換ソフトの開発者も大変である。







  


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:42Comments(0)ことば

2010年05月15日

歴史教科書の文章

中学の社会の教科書は退屈だ。
教科書なんてそんなものだと言ってしまえばそれまでだが、もう少し何とかならないものか。

手元に平成8年発行と18年発行(現行)の歴史教科書がある(いずれも東京書籍)。
新しい方はB5版になり、全ページにカラーの写真や図表が満載だ。
初めに「これからみなさんといっしょに学習していく友だち」が出てくる。
本文中の随所でそのイラストが登場して、
「どんなちがいがあるかな」「何をしているんだろう」などと生徒に語りかける構成だ。
小学校の教科書と大差ない。

文体も8年版の「である」調から「ですます」調に変わった。
そのために文末表現が恐ろしく単調になり、「~しました」「~でした」の連発である。
事実の羅列のみになるのは仕方ないが、文章に全くリズムが感じられず、読み進めるのが苦痛になる。

おまけに一文が長い!
例として、18年版の鎌倉時代の記述を挙げる。
承久の乱の説明で、後鳥羽上皇が挙兵した後の文である。

 幕府は大軍を率いてこれを破り(承久の乱)、京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視するとともに、
 上皇側についた貴族や西国の武士の領地を取り上げ、地頭に東国の武士を任命し、幕府の支配力は
 いちだんと強まりました。


句読点を入れて101文字である。
スラスラ頭に入ってくるのは、精々50字程度の文ではなかろうか。
この文には主語が2つ出てくるので(「幕府は」と「支配力は」)よけいに読みにくい。

同じ箇所が8年版ではこうなっている。

 しかし上皇がわの期待に反して、東国の武士の大部分は北条氏についたため、大軍の前に敗れ去って、
 上皇は隠岐(島根県)に流された。これを承久の乱という。
 乱のあと、幕府は、京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視し、西国の支配に当たらせた。また、上皇
 がわについた貴族や武士の領地を取り上げて、その地の地頭に東国の武士を任命したので、幕府の全
 国に対する支配力はいちだんと強くなった。


どうだろう?
8年版の方がはるかに読みやすく、記述が生き生きとしている感じがしないだろうか?
「である」調で1文も適度の長さに切ってあるため、リズムがある。
「上皇がわの期待に反し」「大軍の前に敗れ去って」という表現も味がある。
「また、」以降の文にはやはり主語が2つあるが、「~ので」を入れたことでわかりやすくなっている。

「ゆとり教育」の影響で教科書が薄くなり、字数に制限があるのだろうが、
それなら「ですます」調をやめて少しでも字数を減らせばいい。
カラフルな写真にスペースを割くより本文を充実させればいい。

他教科の教科書にも、おしなべて同じことが言える。
薄くなって本文が減った。「親しみやすさ」ばかりが目につく。
中身が少なくなったから楽になるかといえば、事実は全く逆である。
説明が少ない分、かえってわかりにくくなっているのだ。

塾では昔の教科書や高校の教科書を見るよう指導している。
薄っぺらな、「親しみやすい」教科書は、生徒を馬鹿にしているとしか思えない。

ゆとり教育見直しで教科書の中身は少しはましになるかも知れないが、
文章も良質なものに改めてほしいと強く望む。




  


Posted by どーもオリゴ糖 at 16:08Comments(0)ことば

2010年05月14日

言霊

先日長野日大中学の塾関係者向け説明会に行った。
終了後平安堂東和田店に寄ったら、欲しい本がいっぱいあって、厳選の後6冊を購入。
この書店とは妙に相性がいいのだ。
同じ平安堂でも、川中島店ではこうはならない。

その中の1冊がなかなか良かった。
金田一秀穂著「15歳の日本語上達法」である。
講談社から「15歳の寺子屋」シリーズとして刊行されているものの一つだ。

まず表紙のキャッチフレーズに大いに賛同。
「大切なのは漢字を記憶することより、言葉で考えることだ!」

100ページ足らずで中学生向けの文章なので、あっという間に読み終えた。
言葉の持つ力の大きさ、言葉で表現することの限界などが説かれており、
日本語力をアップする必要性を訴えている。
わかりやすくするために多くの例が挙げられているが、こんな話が印象に残った。

英語には「肩が凝る」という表現はないという。
従って、英語圏の人は後頭部や背中が痛くなることはあっても、肩が凝ることはない。
ところが、日本語の「肩が凝る」を知った途端、肩が凝り始めるそうだ。

逆の例も紹介されている。
アメリカでは「風邪をひくと耳が痛くなる」が常識で、
筆者はそれまでそんな経験はなかったのに、
それを知ってからは、風邪をひく度に耳が痛いというのだ。

まさに言葉の力だ。言霊である!
言葉が人間の思考や心理を支配し、体にまで影響を与えてしまう...。

「疲れた」を連発していると、実際にはたいした疲労でなくてもどっと疲れる。
「無理だ」と言った瞬間に本当に無理になる。
「ブルー・マンデー」も「五月病」も「K・Y」も、そんな言葉があるからちょっとしたことを大袈裟に考えてしまうのではないか。
「うつ」だってそうだ。
その言葉がなければ、そんなに深刻にならずに済むのかも知れない。

「言葉なんか おぼえるんじゃなかった」と言ったのは田村隆一(詩人)である。

もちろん、逆にそれがあるお蔭で喜びを感じたり救われたりする言葉もあるだろう。
「愛」「幸せ」「ぬくもり」「思いやり」「オンリー・ワン」などなど...。

そう言えば、私はかなり大きくなるまで、カニ蒲を本物のカニだと信じていた。
事実を知らないままの方が、ずっと幸せだったかも知れない。

なまじ知識があるために柔軟な発想ができなかったり、技術を持つが故にもっとうまい方法を探そうとしなかったり、ということもあろう。
勉強すること、練習すること、進化することなどについて、いろいろ考えさせられた一日であった。





  


Posted by どーもオリゴ糖 at 14:21Comments(2)ことば