2010年07月18日

国語の授業は役に立っているか?

二つ運営しているうちの一つの塾で、毎月俳句や短歌を覚えさせている。
季節に合ったものを7,8個選んで月初めにリストを渡し、教室にも掲示する。
翌月の初めに穴埋め問題でチェック。
俳句は初めの5文字、短歌は上の句の5文字と下の句の7文字のみ提示されていて、残りを埋める。
みんな、苦労しながらも何とかクリアしている。

今月の俳句の一つに次の句がある。

 夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる (山口誓子)

「汽缶車」という表記が時代を感じさせる。
生徒に披露する前に、作者と正確な表記を確認するために、いつもネットで検索するのだが、
今回この句を入力したら、こんなサイトにたどり着いた。
どうも、全国の学校教師が指導案などを情報交換する場であるらしい。

ちょっと興味を引かれて読んでみる。

ん?...なんだ、この予定調和的な授業は...。
「何に感動したのでしょうか。」だって?
「話者は車輪をどの位置から見ていますか。」だと...?


どうでもいいようなことを、如何にも大切なことのようにいじくり回している。
だが、我々が受けてきた国語の授業って、こんな感じだったよな...と思う。

いったい国語って何を教える教科なのか?
漢字と文法、古文や漢文は、教えることが明確なのでわかりやすい。
問題は現代文だ。
「読解」というより「鑑賞」に重きが置かれすぎているのではないかと思う。

冒頭の俳句に関しては、私のイメージは、
鄙びた終着駅の車止めの手前に自分がいて、
汽車が向こうから自分の方に寄って来て止まる感じだ。
紹介したサイトにあるような、真横から見ている絵ではない。

その辺は自由でいいのではないか?
理屈をこねればこねるほど、虚しさが募る...。

今の学校の(特に小学校の)国語の授業は、どう感じたか、どう思ったかばかりに
重点が置かれすぎている。
読解でも作文でもそうだ。
もっと言えば、どう感じるべきか、どう思うべきかに偏っている面もあるが、
まあ、それについては今回は触れないでおく。

先日亡くなった井上ひさし氏が書いたこんな本がある。
文章上達のための具体的な提言が満載の本だ。

氏は言う。
感想文なんて大人だって難しい。
どう感じたかより前に、事実を正確に伝える文章を書く練習を積むべきだとと...。

これにはまったく同感である。
塾で使っているオリジナル教材も、絵や図形、漢字、地図などを題材に、
「説明力」をつけることを重視したものだ。

漢検の不祥事のあおりを受けてなくなってしまった「文検」(日本語文章能力検定)でも、
絵を説明する問題があり、そこには「あなたが考えたことを書いてはいけません」という注釈があった。
推測で「親子が」とか「兄弟が」などと書くと減点される。
絵から客観的に判断できることのみを説明せよというものだった。

学校で十何年国語を学んだはずなのに、
書く力、話す力が確立できていない日本人が少なくない。
文科省もようやく、「言語力の育成」と称して、
論理的に考え、論理的に伝える力を育むことに重きを置き始めたが、
国語の授業のあり方が旧態依然では、その実現は極めて難しいだろう。

いっそのこと「国語」と別の教科を立ち上げた方がいいのかも知れない。
鑑賞は「国語」に任せ、
観察、描写、報告から始まり、見聞したものを正確に伝える、
誤解のないよう、しかもわかりやすく伝える練習を主とした新教科を作る。

相手の立場に立つ想像力や、自分の文章を吟味する力も養われるだろう。
説明文がやがては意見文になり、小論文になる。
ここでは自分の考えを整理する力が重要になる。
要約力を高めることも欠かせない。


今、そんな教材を少しずつ作成中である。
以前作った教材がいろいろあるのだが、単発的なものが多い。
体系的な言語力教材、まずは中学生向けのものを、今年中には完成させたいと思っている。








  


Posted by どーもオリゴ糖 at 12:21Comments(0)よしなしごと