2010年07月31日
「シー」が言えない...
一昨日の記事で、「ディズニーランド」が「デズニーランド」になったり、
「ティファニー」が「テファニー」、
「ファール」が「ハール」になったりする例を書いていて思い出した。
今年高校生になった生徒に、不思議な発音の子がいたのだ。
今の子は、ほとんどが「she」と「see」の発音を区別できる。
カタカナで「シー」「スィー」と書いても、ちゃんと読んでくれる。
たまに「スィー」の発音ができない(「シー」になってしまう)生徒にもお目にかかったが、
まあ、そんな子もいるだろうと気にも留めなかった。
ところが、その子はまったく逆だったのだ。
「スィー」は言えるのに「シー」が発音できないのだ。
「静かに!」というときの「シー」だよと、アドバイスしても変わらない。
普通に日本語で言わせてみても、「新聞紙」が「スィンブンスィ」になってしまう。
実はその子の苗字にも「し」があったのだが、それもやはり「スィ」だった...。
「She is ~」を「スィー イズ」と読まれる度に、ものすごい違和感があった。
でも、彼としては精一杯区別をつけようとしてるのだ。
それ以上求めるわけにはいかない。
これはグローバル化に適応した進化なのか...。
とは言っても、「she」が「sea」になっては誤解を招くことも多かろう。
She is my mother. がSea is my mother. に聞こえるくらいなら、詩的でいいかも知れないが...。

「ティファニー」が「テファニー」、
「ファール」が「ハール」になったりする例を書いていて思い出した。
今年高校生になった生徒に、不思議な発音の子がいたのだ。
今の子は、ほとんどが「she」と「see」の発音を区別できる。
カタカナで「シー」「スィー」と書いても、ちゃんと読んでくれる。
たまに「スィー」の発音ができない(「シー」になってしまう)生徒にもお目にかかったが、
まあ、そんな子もいるだろうと気にも留めなかった。
ところが、その子はまったく逆だったのだ。
「スィー」は言えるのに「シー」が発音できないのだ。
「静かに!」というときの「シー」だよと、アドバイスしても変わらない。
普通に日本語で言わせてみても、「新聞紙」が「スィンブンスィ」になってしまう。
実はその子の苗字にも「し」があったのだが、それもやはり「スィ」だった...。
「She is ~」を「スィー イズ」と読まれる度に、ものすごい違和感があった。
でも、彼としては精一杯区別をつけようとしてるのだ。
それ以上求めるわけにはいかない。
これはグローバル化に適応した進化なのか...。
とは言っても、「she」が「sea」になっては誤解を招くことも多かろう。
She is my mother. がSea is my mother. に聞こえるくらいなら、詩的でいいかも知れないが...。

2010年07月30日
当世中学生漢字事情
塾で中学生が毎回書いていくコメントを見ていると、漢字の間違いが目につく。
特に多い5つをご紹介する。
その1:「解き方」を「問き方」と書いてくる。
「問」や「問う」でしょっちゅう目にしているので脳裏に焼き付いているのか...。
「解」は「かい」と読む方が多いからかも知れない。
その2;「意味」を「意見」と書く。
そりゃあ「見」も「み」と読むが、これでは意味が通じない。
その3:「落」という字。サンズイの横に草かんむりと「各」を書く。
正しくは草かんむりが優先。
その下にサンズイと「各」が入らなければならない。
これ、大人でも間違っている人意外と多いですよ。
その4:「図」の内側。カタカナの「シ」に斜め線を入れる。
本来は「ツ」に斜め線である。
「図」以前に、カタカナの「ツ」と「シ」の書き分けができていない生徒もいる。
ひらがなを参考に、「ツ」は「つ」をイメージして上の横線を揃え、上から下へ払う、
「シ」は「し」と同様に左の縦線を揃え、下から上へ払う...と教えるとうまく行く。
その5:「鳥取県」を「取鳥県」としてしまう。
「取」よりも「鳥」の方が「とり」と読むイメージが強いのだと思う。
鳥取県は、その位置も島根県とよく混同される気の毒な県である。
日々生徒に接していると、「え?」という間違いや、
「そんなことも知らんのか!?」と驚くことが少なくない。
続きはまた機会を改めてご紹介したい。

特に多い5つをご紹介する。
その1:「解き方」を「問き方」と書いてくる。
「問」や「問う」でしょっちゅう目にしているので脳裏に焼き付いているのか...。
「解」は「かい」と読む方が多いからかも知れない。
その2;「意味」を「意見」と書く。
そりゃあ「見」も「み」と読むが、これでは意味が通じない。
その3:「落」という字。サンズイの横に草かんむりと「各」を書く。
正しくは草かんむりが優先。
その下にサンズイと「各」が入らなければならない。
これ、大人でも間違っている人意外と多いですよ。
その4:「図」の内側。カタカナの「シ」に斜め線を入れる。
本来は「ツ」に斜め線である。
「図」以前に、カタカナの「ツ」と「シ」の書き分けができていない生徒もいる。
ひらがなを参考に、「ツ」は「つ」をイメージして上の横線を揃え、上から下へ払う、
「シ」は「し」と同様に左の縦線を揃え、下から上へ払う...と教えるとうまく行く。
その5:「鳥取県」を「取鳥県」としてしまう。
「取」よりも「鳥」の方が「とり」と読むイメージが強いのだと思う。
鳥取県は、その位置も島根県とよく混同される気の毒な県である。
日々生徒に接していると、「え?」という間違いや、
「そんなことも知らんのか!?」と驚くことが少なくない。
続きはまた機会を改めてご紹介したい。

2010年07月29日
「ティー」じゃなくて「てい」
4つの道が集まった交差点は、だいたい「十字路」だ。
多少斜めの道があったとしても、「十」とみなして不都合はない。
三叉路になると「Y字路」か「T字路」だ。
...と、ずっと思ってきた。
ところが「T字路」ではなかったのだ!
「ティー」ではなくて「てい」が正しいのだという。
「ディズニーランド」が「デズニーランド」になったり、
「ティファニー」が「テファニー」になったりという、超シルバー世代の話ではない。
(81歳の父は、野球の「ファール」を「ハール」と言う...。)
若者が発音しても「てい」でなくてはならないのだ。
交差する道の形を表しているのは間違いない。
それが「T」ではなくて「丁」なのだ。
「甲乙丙丁」の「丁」である。
(と言ってもピンと来ない人も多いかな...)
言われてみればそうだ。
「十字路」が漢字を元にしてるのに、「T字路」はないだろう。
と言うことは「Y字路」が斬新ということになる。
余談だが、東京のどこかで五叉路だか六叉路で、
信号があったときは事故が多かったのに、
思い切って信号をなくしたら事故が減ったという話を聞いたことがある。
その方が、お互いに譲り合ったり、注意を怠らなかったりという良い流れになるのだろう。
松代の町も、かなりの拠点に信号がないのが、実は気に入っている。

多少斜めの道があったとしても、「十」とみなして不都合はない。
三叉路になると「Y字路」か「T字路」だ。
...と、ずっと思ってきた。
ところが「T字路」ではなかったのだ!
「ティー」ではなくて「てい」が正しいのだという。
「ディズニーランド」が「デズニーランド」になったり、
「ティファニー」が「テファニー」になったりという、超シルバー世代の話ではない。
(81歳の父は、野球の「ファール」を「ハール」と言う...。)
若者が発音しても「てい」でなくてはならないのだ。
交差する道の形を表しているのは間違いない。
それが「T」ではなくて「丁」なのだ。
「甲乙丙丁」の「丁」である。
(と言ってもピンと来ない人も多いかな...)
言われてみればそうだ。
「十字路」が漢字を元にしてるのに、「T字路」はないだろう。
と言うことは「Y字路」が斬新ということになる。
余談だが、東京のどこかで五叉路だか六叉路で、
信号があったときは事故が多かったのに、
思い切って信号をなくしたら事故が減ったという話を聞いたことがある。
その方が、お互いに譲り合ったり、注意を怠らなかったりという良い流れになるのだろう。
松代の町も、かなりの拠点に信号がないのが、実は気に入っている。

2010年07月28日
10円ぽっち...
Last Sundayの夜、都はるみの特集番組を観ていた。
「大阪しぐれ」「浪花恋しぐれ」「千年の古都」など好きな曲が多い。
先日記事にした盆踊りの定番ソング「好きになった人」ももちろん流れた。
彼女のデビュー曲が「困るのことヨ」という、B級演歌っぽいタイトルなのは知っていた。
今回の発見は、そのB面だった曲である。
レコードジャケットが映し出されたときにしっかり確認した。
「十円ぽっちでごめんなさい」
...思わず吹き出してしまった。
なんだ、コレ...?
さっそく検索するとYou tube にあった。歌詞も掲載されている。
曲調は「おひまなら来てね」(by 五月みどり)みたいだ...。
なるほど、呼び出したり思いを伝えたりするのに、
10円ぽっちしか使わないでごめんなさいという意味だったのか...。
10円の使い途は、1番から順に赤電話、郵便切手、バスの乗り越し賃となっている。
しかしすごい歌詞だ。
「会社なんかはほっといて」などど言う女性は、今の時代いないだろう。
「アラわるいわね」「ノサイサイ」と茶化されては、
「ごめんなさい」にも謝る気持ちなどまったく感じられない。
発売は1964年、東京オリンピックの年である。
10円の価値も今よりは高かっただろうが、それでも「ぽっち」扱いだ。
今のいくらくらいの感覚だったのであろうか...。
公衆電話は今でも10円だから参考にならない。
郵便料金で考えてみよう。
この歌ではラブレターだから、当然封書だろう。
当時6~7歳だった私の記憶では、封書が10円、ハガキが5円だった時代があるので合致する。
今は封書の料金は80円だ。
バスの乗り越し賃も考慮に入れると、
「10円ぽっち」は今の50~80円くらいだろうか...?
これを「ぽっち」と言えるかどうかは、意見の分かれるところだろう。
私の感覚では、やはり10円以下が「ぽっち」である。
36年前と同じということだ。
これからは、お賽銭をあげるときに心の中でつぶやくことにする。
5円ぽっちでごめんなさい...。

「大阪しぐれ」「浪花恋しぐれ」「千年の古都」など好きな曲が多い。
先日記事にした盆踊りの定番ソング「好きになった人」ももちろん流れた。
彼女のデビュー曲が「困るのことヨ」という、B級演歌っぽいタイトルなのは知っていた。
今回の発見は、そのB面だった曲である。
レコードジャケットが映し出されたときにしっかり確認した。
「十円ぽっちでごめんなさい」
...思わず吹き出してしまった。
なんだ、コレ...?
さっそく検索するとYou tube にあった。歌詞も掲載されている。
曲調は「おひまなら来てね」(by 五月みどり)みたいだ...。
なるほど、呼び出したり思いを伝えたりするのに、
10円ぽっちしか使わないでごめんなさいという意味だったのか...。
10円の使い途は、1番から順に赤電話、郵便切手、バスの乗り越し賃となっている。
しかしすごい歌詞だ。
「会社なんかはほっといて」などど言う女性は、今の時代いないだろう。
「アラわるいわね」「ノサイサイ」と茶化されては、
「ごめんなさい」にも謝る気持ちなどまったく感じられない。
発売は1964年、東京オリンピックの年である。
10円の価値も今よりは高かっただろうが、それでも「ぽっち」扱いだ。
今のいくらくらいの感覚だったのであろうか...。
公衆電話は今でも10円だから参考にならない。
郵便料金で考えてみよう。
この歌ではラブレターだから、当然封書だろう。
当時6~7歳だった私の記憶では、封書が10円、ハガキが5円だった時代があるので合致する。
今は封書の料金は80円だ。
バスの乗り越し賃も考慮に入れると、
「10円ぽっち」は今の50~80円くらいだろうか...?
これを「ぽっち」と言えるかどうかは、意見の分かれるところだろう。
私の感覚では、やはり10円以下が「ぽっち」である。
36年前と同じということだ。
これからは、お賽銭をあげるときに心の中でつぶやくことにする。
5円ぽっちでごめんなさい...。

2010年07月27日
なぜそんなに偉そうなのか!?
5月に投扇興の月例会を、初めて旧松代藩の建物で行った。
記事でも採り上げた「山寺常山邸」である。
そのとき、長野市の「松代文化施設等管理事務所」の職員とひと揉めあった。
まずは参加費のことで。
月例会では1人500円の参加費を集めている。
投扇興用の道具は、個人で買うには高価なものもあるので、会として所有している。
消耗品的な要素もあるので、ある程度の補充が必要だ。
体験者に貸し出す扇も、状態の良いものを常備しておかなければならない。
それらの費用として、毎月積み立てているのだ。
ところが、松代の文化施設を使用する際は、その類の参加費は徴収すべからずというお達しが来た。
資料代や材料代ならいいが、積立金はダメだと言う。
なぜダメなのか、その理由が釈然としない。
追及しても明確な回答は得られず、
「参加費を無料にするか、申請を取り消すか」と、極めて事務的な態度で迫ってくる。
仕方なく、その月は無料にして開催した。
当日会場に行くと、電話で確認した「使用中」の掲示が出ていない。
山寺常山邸は普段は無料で見学できる。
立派な庭園が目的の人も多いが、我々が使う「書院」にも自由に出入りできる。
貸し切りではないので観光客をシャットアウトするわけにはいかない。
ただ、投扇興は風の影響をもろに受ける。
あまりに遠慮なく出入りされては競技が成り立たない。
だから、その点を事前に確認しておいたのだ。
電話に出た職員の話では、入口に「使用中」の掲示を出すが、
それでも見学したい人は受け入れてほしいとのことだった。
それくらいならやぶさかではないと思い、使用を申し込んだのである。
ところがその掲示がない。
管理事務所に電話すると、そんなものはないと言う。
申し込みに際してはっきり確認したと言うと、職員がやってきた。
文化施設なのだから観光客を閉め出すような使い方はできないと言う。
まるでこちらがわがままを言っているような口調だ。
そんなことは百も承知だ。
言いたいのは、事前に確認したこととなぜ違うのか、
なぜそんなことを言ったのかということである。
結局、掲示は出さない、入口側のフスマは閉めて構わないということで合意した。
But...帰る際ふと見ると、玄関に「書院使用中」の紙が...。
なんだ、あるんじゃん!!
6月から新しく一般公開された建物がある。
「旧樋口家住宅」と言い、私も会員になっているNPO団体が管理している。
そこならもっと気軽に使えるかなと思い、今月の例会はそこで行った。
ところが、やはり使用申請は「松代文化施設等管理事務所」に出すのであった。
NPOは管理を任されているだけだ。
ということは、また参加費無料である。
早めに行ってセッティングを済ませる。
毛氈を広げ、的からの距離を測って座布団を置き、やれやれと思ったらスタッフがやってきた。
NPO団体が募集した一般人である。
座敷全面にゴザを敷けと言う。
山寺常山邸でもそんな手間は要らなかったし、先月ここで体験会(NPO主催)をやったときも
畳のままでOKだった...。
まあ、文化財を傷つけないようにという配慮だろうと思い、おとなしく従う。
せっかくセットした道具を片づけ、押し入れからゴザを出してきて広げる。
少し大きいこともあり、ブカブカと感触が悪い。
すると書類を手に、いろいろと注意事項を伝え始めた。
どれも、まあそんなことだろうと聞いてると、駐車場の話になった。
すぐ近くにある公民館の駐車場には駐めるなと言う。
私もそこに駐めてきた。
「?」という顔をすると、日曜日なら構わないが...とのこと。
ならば問題ない。月例会はいつも日曜だ。
と、ここでもう一人のおばさんスタッフが口を開いた。
「でも癖になるから...」
なんだ、それ?
なぜそんな偉そうな口がきけるんだ!!
おもわずムッとして言い返した。
「だから、日曜日ならいいんでしょ!」
名札を付けているだけで、立場が上のように思っているのか...。
制服や腕章でも同様の効果があるだろう。
つまりは肩書きが、態度や口調を変えてしまうのである。
歴史的な建物で月例会を行うのは、雰囲気がいいからだけではない。
観光客に少しでも体験してもらいたいからだ。
江戸時代の面影漂う松代の町で、優雅な投扇興で遊んだことは、よい旅の思い出になるだろう。
5月の会のとき、体験して行かれた山梨からの観光客の声が忘れられない。
「素敵な町ですね...」
こういう声を増やしていくことが大切ではないか。
規制を強化するのではなく、地元の住民がもっと気軽に文化施設を使えるようにすべきだろう。
「どんどん使ってください」でなくてはならない。
今のような 「貸してやる」 という態度では、理想には程遠い...。

記事でも採り上げた「山寺常山邸」である。
そのとき、長野市の「松代文化施設等管理事務所」の職員とひと揉めあった。
まずは参加費のことで。
月例会では1人500円の参加費を集めている。
投扇興用の道具は、個人で買うには高価なものもあるので、会として所有している。
消耗品的な要素もあるので、ある程度の補充が必要だ。
体験者に貸し出す扇も、状態の良いものを常備しておかなければならない。
それらの費用として、毎月積み立てているのだ。
ところが、松代の文化施設を使用する際は、その類の参加費は徴収すべからずというお達しが来た。
資料代や材料代ならいいが、積立金はダメだと言う。
なぜダメなのか、その理由が釈然としない。
追及しても明確な回答は得られず、
「参加費を無料にするか、申請を取り消すか」と、極めて事務的な態度で迫ってくる。
仕方なく、その月は無料にして開催した。
当日会場に行くと、電話で確認した「使用中」の掲示が出ていない。
山寺常山邸は普段は無料で見学できる。
立派な庭園が目的の人も多いが、我々が使う「書院」にも自由に出入りできる。
貸し切りではないので観光客をシャットアウトするわけにはいかない。
ただ、投扇興は風の影響をもろに受ける。
あまりに遠慮なく出入りされては競技が成り立たない。
だから、その点を事前に確認しておいたのだ。
電話に出た職員の話では、入口に「使用中」の掲示を出すが、
それでも見学したい人は受け入れてほしいとのことだった。
それくらいならやぶさかではないと思い、使用を申し込んだのである。
ところがその掲示がない。
管理事務所に電話すると、そんなものはないと言う。
申し込みに際してはっきり確認したと言うと、職員がやってきた。
文化施設なのだから観光客を閉め出すような使い方はできないと言う。
まるでこちらがわがままを言っているような口調だ。
そんなことは百も承知だ。
言いたいのは、事前に確認したこととなぜ違うのか、
なぜそんなことを言ったのかということである。
結局、掲示は出さない、入口側のフスマは閉めて構わないということで合意した。
But...帰る際ふと見ると、玄関に「書院使用中」の紙が...。
なんだ、あるんじゃん!!
6月から新しく一般公開された建物がある。
「旧樋口家住宅」と言い、私も会員になっているNPO団体が管理している。
そこならもっと気軽に使えるかなと思い、今月の例会はそこで行った。
ところが、やはり使用申請は「松代文化施設等管理事務所」に出すのであった。
NPOは管理を任されているだけだ。
ということは、また参加費無料である。
早めに行ってセッティングを済ませる。
毛氈を広げ、的からの距離を測って座布団を置き、やれやれと思ったらスタッフがやってきた。
NPO団体が募集した一般人である。
座敷全面にゴザを敷けと言う。
山寺常山邸でもそんな手間は要らなかったし、先月ここで体験会(NPO主催)をやったときも
畳のままでOKだった...。
まあ、文化財を傷つけないようにという配慮だろうと思い、おとなしく従う。
せっかくセットした道具を片づけ、押し入れからゴザを出してきて広げる。
少し大きいこともあり、ブカブカと感触が悪い。
すると書類を手に、いろいろと注意事項を伝え始めた。
どれも、まあそんなことだろうと聞いてると、駐車場の話になった。
すぐ近くにある公民館の駐車場には駐めるなと言う。
私もそこに駐めてきた。
「?」という顔をすると、日曜日なら構わないが...とのこと。
ならば問題ない。月例会はいつも日曜だ。
と、ここでもう一人のおばさんスタッフが口を開いた。
「でも癖になるから...」
なんだ、それ?
なぜそんな偉そうな口がきけるんだ!!
おもわずムッとして言い返した。
「だから、日曜日ならいいんでしょ!」
名札を付けているだけで、立場が上のように思っているのか...。
制服や腕章でも同様の効果があるだろう。
つまりは肩書きが、態度や口調を変えてしまうのである。
歴史的な建物で月例会を行うのは、雰囲気がいいからだけではない。
観光客に少しでも体験してもらいたいからだ。
江戸時代の面影漂う松代の町で、優雅な投扇興で遊んだことは、よい旅の思い出になるだろう。
5月の会のとき、体験して行かれた山梨からの観光客の声が忘れられない。
「素敵な町ですね...」
こういう声を増やしていくことが大切ではないか。
規制を強化するのではなく、地元の住民がもっと気軽に文化施設を使えるようにすべきだろう。
「どんどん使ってください」でなくてはならない。
今のような 「貸してやる」 という態度では、理想には程遠い...。

2010年07月26日
古文嫌いを増やすな!
高校生が古文の宿題をやっている。
見ていると、どこの高校の生徒も同じような作業をしている。
ノートに書き写した文章の単語一つ一つを三角や逆三角、楕円などで囲み、
その横に活用の種類や活用形を書き込んでいる。三角や楕円は品詞の区別をしているらしい。
格調高い珠玉の名文を切り刻んでいじくり回しているのだ...。
こんなことが楽しいわけがない。
それでも生徒たちは素直に、黙々と作業を続ける。
そのうち古文が嫌いになるのは目に見えているのに...。
おそらく、初めはどこかの予備校が始めたのだろう。
それがいつからか高校にまで広がってきたのだ。
私が高校生の頃は、こんな指導はなかった。
もちろん、退屈な文法の解説はあったが、
それよりも作品を味わうことに重点が置かれていた気がする。
前にも書いたが、私は高校で「虫めづる姫君」(堤中納言物語)という異色の話に出会って、
古典の面白さに目覚めたのである。
文法に関しては、百人一首をすべて覚え、
その解釈を100%自分のものにすることで十分対応できた。
活用の種類は答えられなくても、微妙なニュアンスの違いはわかっていたつもりだ。
まあ予備校なら、受験テクニックとしてそれを教えるのも許せる。
しかし高校までがそのまねをするのは放っておけない。
高等学校は小手先のテクニックより、学問の奥深さや学ぶ喜びを教えるべき所ではないのか...。
その高校が、生徒の嫌いな科目を自ら増やすような指導をしてどうする!
もっとも、最近では、むしろ積極的に予備校化している高校も多い。
大学受験の実績を最優先にしたカリキュラムが組まれ、
重箱の隅をつつくようなことまで、とにかく覚えさせる。
教養をつけたり学問の本質に触れるのは、大学へ行ってからでいいと考えているのだろう。
生徒の方も、案外それで満足しているのかも知れない。高校に期待しているのは、少しでもレベルの高い大学に入れるような指導だけなのだろう。
よけいなことはどうでもいいから、受かるように教えてくれということか...。
本当にこれでいいのか!?
高校のあり方とか、プライドとか、
そんなことを真剣に考えるのは時代に合わないのか...。
大学入試が変わらない限り何も変わらないという声はよく耳にする。
だが、そんな悠長なことを言っていていいのか?
10年後の日本が、私は怖ろしい...。

※画像は、先日やって来たツマグロヒョウモンの雌です。
見ていると、どこの高校の生徒も同じような作業をしている。
ノートに書き写した文章の単語一つ一つを三角や逆三角、楕円などで囲み、
その横に活用の種類や活用形を書き込んでいる。三角や楕円は品詞の区別をしているらしい。
格調高い珠玉の名文を切り刻んでいじくり回しているのだ...。
こんなことが楽しいわけがない。
それでも生徒たちは素直に、黙々と作業を続ける。
そのうち古文が嫌いになるのは目に見えているのに...。
おそらく、初めはどこかの予備校が始めたのだろう。
それがいつからか高校にまで広がってきたのだ。
私が高校生の頃は、こんな指導はなかった。
もちろん、退屈な文法の解説はあったが、
それよりも作品を味わうことに重点が置かれていた気がする。
前にも書いたが、私は高校で「虫めづる姫君」(堤中納言物語)という異色の話に出会って、
古典の面白さに目覚めたのである。
文法に関しては、百人一首をすべて覚え、
その解釈を100%自分のものにすることで十分対応できた。
活用の種類は答えられなくても、微妙なニュアンスの違いはわかっていたつもりだ。
まあ予備校なら、受験テクニックとしてそれを教えるのも許せる。
しかし高校までがそのまねをするのは放っておけない。
高等学校は小手先のテクニックより、学問の奥深さや学ぶ喜びを教えるべき所ではないのか...。
その高校が、生徒の嫌いな科目を自ら増やすような指導をしてどうする!
もっとも、最近では、むしろ積極的に予備校化している高校も多い。
大学受験の実績を最優先にしたカリキュラムが組まれ、
重箱の隅をつつくようなことまで、とにかく覚えさせる。
教養をつけたり学問の本質に触れるのは、大学へ行ってからでいいと考えているのだろう。
生徒の方も、案外それで満足しているのかも知れない。高校に期待しているのは、少しでもレベルの高い大学に入れるような指導だけなのだろう。
よけいなことはどうでもいいから、受かるように教えてくれということか...。
本当にこれでいいのか!?
高校のあり方とか、プライドとか、
そんなことを真剣に考えるのは時代に合わないのか...。
大学入試が変わらない限り何も変わらないという声はよく耳にする。
だが、そんな悠長なことを言っていていいのか?
10年後の日本が、私は怖ろしい...。

※画像は、先日やって来たツマグロヒョウモンの雌です。
2010年07月25日
ちょっと変な日本語~その2~
ちょっと変な日本語が、また貯まってきたのでご紹介...。
野球の実況中継が多い。
よく観たり聴いたりしているということもあるが、
原稿のないとっさの喋りがそれを誘発するのだろう。
①CSの「プロ野球ニュース」から。
4試合続けて得点ゼロで負けた広島カープについて...
連続無失点のリーグタイ記録
もちろん「無得点」の間違いだ。
②同じくCSの実況中継。
あがり調子ですね。
「のぼり調子」のことだろうが、原稿があったとは思われないので、
アナウンサーがそう思い込んでいるに違いない。
こういうのは指摘してあげた方が親切というものか...。
③こちらは天下のNHKラジオ。
高校野球長野県大会の実況から...。
あわよくばランナーに当たるのではないかという当たりでした。
「あわよくば」というのは、幸運を期待するときの言葉だ。
起こってほしくないことには用いない。
ランナーに打球が当たればアウトなのだから、明らかな誤用である。
「一歩間違えば」「下手をすると」くらいが妥当か...。
これから高校野球も全国大会、プロ野球のペナントレースも盛り上がってくる。
また面白い日本語に出会える機会も大いに増えそうである...。

野球の実況中継が多い。
よく観たり聴いたりしているということもあるが、
原稿のないとっさの喋りがそれを誘発するのだろう。
①CSの「プロ野球ニュース」から。
4試合続けて得点ゼロで負けた広島カープについて...
連続無失点のリーグタイ記録
もちろん「無得点」の間違いだ。
②同じくCSの実況中継。
あがり調子ですね。
「のぼり調子」のことだろうが、原稿があったとは思われないので、
アナウンサーがそう思い込んでいるに違いない。
こういうのは指摘してあげた方が親切というものか...。
③こちらは天下のNHKラジオ。
高校野球長野県大会の実況から...。
あわよくばランナーに当たるのではないかという当たりでした。
「あわよくば」というのは、幸運を期待するときの言葉だ。
起こってほしくないことには用いない。
ランナーに打球が当たればアウトなのだから、明らかな誤用である。
「一歩間違えば」「下手をすると」くらいが妥当か...。
これから高校野球も全国大会、プロ野球のペナントレースも盛り上がってくる。
また面白い日本語に出会える機会も大いに増えそうである...。

2010年07月24日
専門用語?
娘(24歳)に宅急便が届いた。
おそらくコンサートのチケットだろう。
「セキュリティーパッケージ」「重要書類在中」「代品なし」など、おどろおどろしい文字が並んでいる。
こういう、荷物に記される注意書きは、独特のものが多い。
「投込厳禁」は、まあわかる。
しかし疑問も湧く。
これが書かれていない荷物は、投げ込んでもいいのか?まさか、玄関を開けて荷物を放り投げていく業者はあるまいが...。
「完全判取」は初めて目にした。
今「はんしゅ」変換しても、「藩主」しか出てこなかった...。
それだけ特殊な専門用語なのだろう。
「完全××」で思い浮かぶのは、「完全無欠」「完全試合」「完全犯罪」くらいのものか...。
いずれにしても、なんか重々しい。
まあ、言わんとすることはわかる。
確かに届けたことを証明するため、必ずハンコやサインを貰うことという意味だろう。
ならば、もう少しスッキリした言い方はないものか...。
「受取確認必須」では長いか...。
「受印必須」ならどうだろう?
前々から気になっていた注意書きのことを思い出した。
「天地無用」である。
もちろん、荷物の上下を逆さまにしてはいけないという注意だが、
一瞬、まったく逆の意味にも取れる。
「心配無用」や「問答無用」の「無用」は、そうする必要がないという意味だろう。
すると「天地無用」は、天と地を気にする必要がない、
ひっくり返しても構わない...とも取れるのではないか...。
「天と地を逆にする必要がない」と解釈すればいいのだろうが、なにか釈然としない。
これでは、この注意書きのない物は、わざわざ逆さまにするのがルールのように聞こえる。
ダンボール箱が大きすぎて上部に空間ができてしまったとき、
新聞紙やプチプチを詰めて形を整える。
中に壊れやすい物が入っている場合は、つぶされないように注意書きをしておく。
これを私はずっと「上乗厳禁」と書いてきた。
ところが、どうも主流は「下積厳禁」のようだ。
「上乗厳禁」の方は、他の荷物を対象としている。
他の荷物を上に乗せないでね、ということだ。
一方「下積厳禁」は、注意書きのある荷物を対象とした表現である。
この荷物を他の荷物の下にしないでよ、とアピールしている。
そうすると、やはり「下積」の方がわかりやすいのだろうか...。
でも、「下に積む」という表現が気になる。
「積む」には、どうしても上へ上へというイメージが伴うのだ。
おまけ:「下積み生活」などを連想してしまうのもよくない。
NHK「ケータイ大喜利」の「下積長子」ご存知の方いますか...?
他にも、荷物に付けるいろいろな注意書きがある。
「こわれもの」「なまもの」「折曲厳禁」「水濡注意」「取扱注意」...。
これらは誤解されることはないだろうが、あまりに専門用語的な言い方が増えすぎるのは困る。
グローバル化が進む時代、万国共通の注意書きを考える必要も多かろう。
ピクトグラムのように、目で見てわかるのが一番だ。
国内の荷物でもそれが主流になってほしいと思う。

おそらくコンサートのチケットだろう。
「セキュリティーパッケージ」「重要書類在中」「代品なし」など、おどろおどろしい文字が並んでいる。
こういう、荷物に記される注意書きは、独特のものが多い。
「投込厳禁」は、まあわかる。
しかし疑問も湧く。
これが書かれていない荷物は、投げ込んでもいいのか?まさか、玄関を開けて荷物を放り投げていく業者はあるまいが...。
「完全判取」は初めて目にした。
今「はんしゅ」変換しても、「藩主」しか出てこなかった...。
それだけ特殊な専門用語なのだろう。
「完全××」で思い浮かぶのは、「完全無欠」「完全試合」「完全犯罪」くらいのものか...。
いずれにしても、なんか重々しい。
まあ、言わんとすることはわかる。
確かに届けたことを証明するため、必ずハンコやサインを貰うことという意味だろう。
ならば、もう少しスッキリした言い方はないものか...。
「受取確認必須」では長いか...。
「受印必須」ならどうだろう?
前々から気になっていた注意書きのことを思い出した。
「天地無用」である。
もちろん、荷物の上下を逆さまにしてはいけないという注意だが、
一瞬、まったく逆の意味にも取れる。
「心配無用」や「問答無用」の「無用」は、そうする必要がないという意味だろう。
すると「天地無用」は、天と地を気にする必要がない、
ひっくり返しても構わない...とも取れるのではないか...。
「天と地を逆にする必要がない」と解釈すればいいのだろうが、なにか釈然としない。
これでは、この注意書きのない物は、わざわざ逆さまにするのがルールのように聞こえる。
ダンボール箱が大きすぎて上部に空間ができてしまったとき、
新聞紙やプチプチを詰めて形を整える。
中に壊れやすい物が入っている場合は、つぶされないように注意書きをしておく。
これを私はずっと「上乗厳禁」と書いてきた。
ところが、どうも主流は「下積厳禁」のようだ。
「上乗厳禁」の方は、他の荷物を対象としている。
他の荷物を上に乗せないでね、ということだ。
一方「下積厳禁」は、注意書きのある荷物を対象とした表現である。
この荷物を他の荷物の下にしないでよ、とアピールしている。
そうすると、やはり「下積」の方がわかりやすいのだろうか...。
でも、「下に積む」という表現が気になる。
「積む」には、どうしても上へ上へというイメージが伴うのだ。
おまけ:「下積み生活」などを連想してしまうのもよくない。
NHK「ケータイ大喜利」の「下積長子」ご存知の方いますか...?
他にも、荷物に付けるいろいろな注意書きがある。
「こわれもの」「なまもの」「折曲厳禁」「水濡注意」「取扱注意」...。
これらは誤解されることはないだろうが、あまりに専門用語的な言い方が増えすぎるのは困る。
グローバル化が進む時代、万国共通の注意書きを考える必要も多かろう。
ピクトグラムのように、目で見てわかるのが一番だ。
国内の荷物でもそれが主流になってほしいと思う。

2010年07月23日
この番組は何なんだ!?
NHKで毎週木曜日の夜に放映している、日本語についての番組がある。
タイトルから気に入らない。
「みんなで日本GO!」だと...?
NHKならもう少し「らしい」タイトルにしろ!
何なんだ、このウケを狙ったような、恥ずかしくなるような名前は...。
まあ。百歩譲って、内容がそれなりならタイトルは許す。
しかし、内容も思わずヤジを飛ばしたくなるようなていたらくなのだ。
まず司会の面々が軽い。
船越英一郎、アンタッチャブルの山崎、可愛いだけのような女子アナ...。
「この言い方はありかなしか」をスタジオの有名人・一般人に問うのだが、
フリは「みんなで日本GO!」のGO!に合わせて手を突き上げる。
答える方はYES・NOを、青・赤の風船(言霊だそうだ..)を肩に乗せることで表示する。
番組の終わりには、街で見かけた「なにコレ」的な日本語を、
視聴者から写真で投稿してもらうコーナーがあるのだが、
そのコーナーの名が「NHK(何か・変な・感じ)」...。
昭和の匂いがプンプンする。
プロデューサーはかなりお年の方か...。
だったら肝心の日本語についても、かなり頑固な見解を押し通すのかと思えば、これが違うのだ。
日本語が乱れていると言われる昨今、一方で日本語を見直すという動きも盛んだ。
日本語に焦点を当てた番組も珍しくない。
少し前まで民放でやっていた「タモリのジャポニカロゴス」は面白かった。
今度はNHKということで、
「こんな言い方はダメ!」とビシッと指摘してくれるのだろうと期待していた。
ところがまったく逆なのだ。
早い話、「これは変だろう」と思う日本語も、ほとんどが「あり」なのだ。
語源はこうだ、方言では普通だ、若者はこんな気持ちで使っているなどのデータを紹介し、
「だからこの言い方もおかしくない」という方向に誘導している。
NHKのイメージを打ち破る番組にしたかったのかも知れない。
「目からウロコ」をさかんにアピールしている。
言葉は時代の流れで変わるものだという主張はわかる。
そういう面も確かにあるだろう。
「一所懸命」より「一生懸命」が一般的になったり、
「情緒」の読み方が「じょうしょ」から「じょうちょ」に変わったような例も多い。
(私は意地でも「一所懸命」を使う...。)
しかし、「全然おいしい」も「とんでもございません」も、
「Aランチになります」や「(プラス評価の)やばい」も、何でもOKというのは如何なものか。
さらに腹が立つのは、スタジオの「判定人」の意見が簡単に変わることだ。
初めはNOを表示していた人たちも、
上記のような「弁明」を聞いた後での再質問では、コロッとYESに変わってしまう。
「なし」が大半だった言い方も、最終的には「あり」が過半数を占める展開になるのだ。
「やらせ」出はないかと思うくらい、みごとなどんでん返しになることも少なくない。
もうちょっと自分の見解に自信を持てと言いたくなる...。
まあ、かく言う私も、文句を言いながらも毎週チェックはしているので、
案外人気があるのかも知れない。
しかし、できれば一刻も早く終わってほしいものだ。
「別に正しくなくても、何でもいいじゃん」という日本人が増えないうちに...。

タイトルから気に入らない。
「みんなで日本GO!」だと...?
NHKならもう少し「らしい」タイトルにしろ!
何なんだ、このウケを狙ったような、恥ずかしくなるような名前は...。
まあ。百歩譲って、内容がそれなりならタイトルは許す。
しかし、内容も思わずヤジを飛ばしたくなるようなていたらくなのだ。
まず司会の面々が軽い。
船越英一郎、アンタッチャブルの山崎、可愛いだけのような女子アナ...。
「この言い方はありかなしか」をスタジオの有名人・一般人に問うのだが、
フリは「みんなで日本GO!」のGO!に合わせて手を突き上げる。
答える方はYES・NOを、青・赤の風船(言霊だそうだ..)を肩に乗せることで表示する。
番組の終わりには、街で見かけた「なにコレ」的な日本語を、
視聴者から写真で投稿してもらうコーナーがあるのだが、
そのコーナーの名が「NHK(何か・変な・感じ)」...。
昭和の匂いがプンプンする。
プロデューサーはかなりお年の方か...。
だったら肝心の日本語についても、かなり頑固な見解を押し通すのかと思えば、これが違うのだ。
日本語が乱れていると言われる昨今、一方で日本語を見直すという動きも盛んだ。
日本語に焦点を当てた番組も珍しくない。
少し前まで民放でやっていた「タモリのジャポニカロゴス」は面白かった。
今度はNHKということで、
「こんな言い方はダメ!」とビシッと指摘してくれるのだろうと期待していた。
ところがまったく逆なのだ。
早い話、「これは変だろう」と思う日本語も、ほとんどが「あり」なのだ。
語源はこうだ、方言では普通だ、若者はこんな気持ちで使っているなどのデータを紹介し、
「だからこの言い方もおかしくない」という方向に誘導している。
NHKのイメージを打ち破る番組にしたかったのかも知れない。
「目からウロコ」をさかんにアピールしている。
言葉は時代の流れで変わるものだという主張はわかる。
そういう面も確かにあるだろう。
「一所懸命」より「一生懸命」が一般的になったり、
「情緒」の読み方が「じょうしょ」から「じょうちょ」に変わったような例も多い。
(私は意地でも「一所懸命」を使う...。)
しかし、「全然おいしい」も「とんでもございません」も、
「Aランチになります」や「(プラス評価の)やばい」も、何でもOKというのは如何なものか。
さらに腹が立つのは、スタジオの「判定人」の意見が簡単に変わることだ。
初めはNOを表示していた人たちも、
上記のような「弁明」を聞いた後での再質問では、コロッとYESに変わってしまう。
「なし」が大半だった言い方も、最終的には「あり」が過半数を占める展開になるのだ。
「やらせ」出はないかと思うくらい、みごとなどんでん返しになることも少なくない。
もうちょっと自分の見解に自信を持てと言いたくなる...。
まあ、かく言う私も、文句を言いながらも毎週チェックはしているので、
案外人気があるのかも知れない。
しかし、できれば一刻も早く終わってほしいものだ。
「別に正しくなくても、何でもいいじゃん」という日本人が増えないうちに...。

2010年07月22日
蛇の祟り
一昨日の信濃毎日新聞「斜面」は、柳田国男の「遠野物語」の話題だった。
私は大学で民俗学を専攻したので、もちろんこの書は知っている。
河童や山女、狼などについての怖ろしい話が満載だ。
しかも、空想ではなく「この書は現在の事実なり」なのだ。
実際に遠野を歩いたのは遙か昔のことだが、
「いかにも...」という土地だった記憶がある。
実は偶然にも昨日、近所の老人からこんな体験談を聞いた。
今年は安協の役員なので、その長老と二人で小学校の前に立った。
まだ子どもたちの姿も見えないので川を見ていると、
2メートルに迫ろうかというアオダイショウが日なたぼっこをしていた。
しばらく蛇の話になる。
私が、自然養鶏を生業としていたとき、アオダイショウに雛を喰われた話をした。
発見したときには、上半身は金網の外に出ているものの、
飲み込んだ雛でふくれ上がった腹がつかえて、逃げ切れないでいる状態だった。
蛇は大嫌いだが、このまま逃がしてはまたやって来るに違いない。
雛だけでなく、商品である卵も常に狙われているのだ。
意を決してしっぽを捕まえて引き抜き、そのまま地面にたたきつけた。
そんな話をした後の、長老の話だ。
中学生だった頃、腹のふくれたアオダイショウを捕まえ、腹を割いてみた。
中には野ウサギの子が2羽出てきたという。
それからしばらくして、集落の裏の山にキノコを採りに行ったそうだ。
尾根近くで休んでいたら、頭の上の木にアオダイショウがいた。
すると突然霧が発生し、あっと言う間に1m先も見えなくなったという。
激しい雨も降ってきた。
ずぶ濡れになりながら帰ろうとするが、道がまったくわからない。
さんざん迷って山の向こう側に降り、5,6km歩いてやっと帰ってきたそうだ。
あれは蛇の祟り(たたり)だったと述懐する。
長く生きてきた人の、実際の体験談には重みがある...。
昔は本当にそんなことがあったのだ。
いや、今でもあるのに、語り継がれていないだけかも知れない。
非科学的だ、迷信だと、貴重な体験が伝えられないまま埋もれているのではないか...。
自然や生き物や怪異現象を、畏れ敬っていた時代の方が、
精神的にはずっと豊かだった気がする...。

p.s. 画像は昔の携帯で撮った写真なので不鮮明ですが、卵を飲み込んでいるアオダイショウです。
産卵箱の中にいたのでびっくりしました...。
私は大学で民俗学を専攻したので、もちろんこの書は知っている。
河童や山女、狼などについての怖ろしい話が満載だ。
しかも、空想ではなく「この書は現在の事実なり」なのだ。
実際に遠野を歩いたのは遙か昔のことだが、
「いかにも...」という土地だった記憶がある。
実は偶然にも昨日、近所の老人からこんな体験談を聞いた。
今年は安協の役員なので、その長老と二人で小学校の前に立った。
まだ子どもたちの姿も見えないので川を見ていると、
2メートルに迫ろうかというアオダイショウが日なたぼっこをしていた。
しばらく蛇の話になる。
私が、自然養鶏を生業としていたとき、アオダイショウに雛を喰われた話をした。
発見したときには、上半身は金網の外に出ているものの、
飲み込んだ雛でふくれ上がった腹がつかえて、逃げ切れないでいる状態だった。
蛇は大嫌いだが、このまま逃がしてはまたやって来るに違いない。
雛だけでなく、商品である卵も常に狙われているのだ。
意を決してしっぽを捕まえて引き抜き、そのまま地面にたたきつけた。
そんな話をした後の、長老の話だ。
中学生だった頃、腹のふくれたアオダイショウを捕まえ、腹を割いてみた。
中には野ウサギの子が2羽出てきたという。
それからしばらくして、集落の裏の山にキノコを採りに行ったそうだ。
尾根近くで休んでいたら、頭の上の木にアオダイショウがいた。
すると突然霧が発生し、あっと言う間に1m先も見えなくなったという。
激しい雨も降ってきた。
ずぶ濡れになりながら帰ろうとするが、道がまったくわからない。
さんざん迷って山の向こう側に降り、5,6km歩いてやっと帰ってきたそうだ。
あれは蛇の祟り(たたり)だったと述懐する。
長く生きてきた人の、実際の体験談には重みがある...。
昔は本当にそんなことがあったのだ。
いや、今でもあるのに、語り継がれていないだけかも知れない。
非科学的だ、迷信だと、貴重な体験が伝えられないまま埋もれているのではないか...。
自然や生き物や怪異現象を、畏れ敬っていた時代の方が、
精神的にはずっと豊かだった気がする...。

p.s. 画像は昔の携帯で撮った写真なので不鮮明ですが、卵を飲み込んでいるアオダイショウです。
産卵箱の中にいたのでびっくりしました...。
2010年07月21日
メッカを向け!
昨日のYahooニュースにこんな記事があった。
「メッカ西でない 祈る方角訂正」
インドネシアでの話である。
イスラム社会の最高権威であるウレマ評議会というところが、
同国の信者がこれまで祈りを捧げていた方角は間違いだったとして、訂正の宗教令を出したのだという。
これ、6月28日の記事で私がよけいなお世話の心配をしていた話だ...。
実際にそんなまぬけな話があるとは思ってもいなかった。
だが、待てよ...。
インドネシアならほぼ赤道上だから、日本におけるようなややこしさはないんじゃないだろうか...。
おなじみのメルカトル図法で判断しても、そんなにズレはないはずだ。
真西がタンザニアやケニアにあたるのは、すぐわかるのではないか...。
こんな単純な、しかし重要な間違いがなぜ起きたのか。
さらに、なぜこれまで誰も指摘しなかったのだろうか...。
と思って記事をよく読むと、
西の方角を向くようにとの通達を出したのは、この3月のことだという。
最近になって、わざわざまちがった指示を出していたわけだ。
それまで習慣的に正しい方角を向いていた信者まで、振り回された結果になったのではないか...。
いつかの「雑学王」で、韓国のサムスンだったかLGだったかが、
イスラム圏で販売している携帯電話の話題があった。
その名も「メッカフォン」。
どこにいてもメッカの方角が瞬時に正確にわかる機能を付け、
爆発的な人気だと言っていた。
ひょっとすると今回の騒動も、誰かが「メッカフォン」で確認したことが発端になっているのかも知れない。

p.s.携帯ではないが、メッカの方角がすぐにわかるコンパスがあった。一周が400度というのが謎である...。
「メッカ西でない 祈る方角訂正」
インドネシアでの話である。
イスラム社会の最高権威であるウレマ評議会というところが、
同国の信者がこれまで祈りを捧げていた方角は間違いだったとして、訂正の宗教令を出したのだという。
これ、6月28日の記事で私がよけいなお世話の心配をしていた話だ...。
実際にそんなまぬけな話があるとは思ってもいなかった。
だが、待てよ...。
インドネシアならほぼ赤道上だから、日本におけるようなややこしさはないんじゃないだろうか...。
おなじみのメルカトル図法で判断しても、そんなにズレはないはずだ。
真西がタンザニアやケニアにあたるのは、すぐわかるのではないか...。
こんな単純な、しかし重要な間違いがなぜ起きたのか。
さらに、なぜこれまで誰も指摘しなかったのだろうか...。
と思って記事をよく読むと、
西の方角を向くようにとの通達を出したのは、この3月のことだという。
最近になって、わざわざまちがった指示を出していたわけだ。
それまで習慣的に正しい方角を向いていた信者まで、振り回された結果になったのではないか...。
いつかの「雑学王」で、韓国のサムスンだったかLGだったかが、
イスラム圏で販売している携帯電話の話題があった。
その名も「メッカフォン」。
どこにいてもメッカの方角が瞬時に正確にわかる機能を付け、
爆発的な人気だと言っていた。
ひょっとすると今回の騒動も、誰かが「メッカフォン」で確認したことが発端になっているのかも知れない。

p.s.携帯ではないが、メッカの方角がすぐにわかるコンパスがあった。一周が400度というのが謎である...。
2010年07月20日
「消毒」ということば
前にも書いたように、ただでさえ過度な清潔志向が蔓延しているところに、
鳥インフルエンザだ、口蹄疫だと拍車がかかり、
今や日本列島は消毒漬けである。
日常生活から農業、商業、医療・福祉まで、
一日に行われる消毒の量はどれくらいになるのだろう...。
そんなことを考えていたら、この「消毒」という言葉が気になった。
似たような言葉に「殺菌」「滅菌」、最近よく聞く「除菌」「抗菌」などがある。
いったいどこがどう違うのか...。
いろいろ調べてみたら、どうもこんなことらしい。
「殺菌」や「滅菌」は、すべての菌を死滅させること。
菌が病原性のものか否かに関わらずである。
それに対して「消毒」は、病原菌を死滅または除去することで、
非病原菌の残存は許されるという定義になっている。
因みに「除菌」は、濾過や洗浄によって菌を除去すること。死滅させるわけではない。
「抗菌」は最近使われ出した用語で、まだ明確な定義は確立していないという。
今のところ、「除菌」よりも緩やかなレベルと解釈されているようだ。
となると、やはりあまり神経質に殺菌だ、滅菌だというのは避けた方がいいだろう。
人体に有用な常在菌まで死滅させることになる。
医療現場などではともかく、日常生活ではせいぜい「消毒」に留めるべきだ。
...と、ここでまた考えた。
農業には付きものの「消毒」、あれは本当に「消毒」なのか...。
妻が管理している家庭菜園では、消毒など一切しないのでテントウムシが異常に多いようだ。
見ばえにこだわる消費者が多数である以上、
出荷する作物には消毒が欠かせないのも理解できる。
見ばえ以前に、消毒しなければろくに実がならないものもあるだろう。
以前、一時期だけ小梅の畑を借りたことがあるが、
まったく消毒しなかったので惨めな収穫に終わった...。
だから、農家の方を非難するつもりは全くない。
その点をご了解いただいた上で言わせてもらうが、あれは「消毒」ではないのではないか?
むしろ、そのために使用する農薬の方が「毒」であろう。
残留農薬を気にする消費者も少なくない...。
劇薬レベルの薬を散布しているのだから、あれではすべての菌を死滅させているように思われる。
ならば「殺菌」「滅菌」と呼ぶべきではないか。
実は作物にとって有用な菌まで殺している、ということもあるのではないか。
「虫が来ない」のは「虫も来ない」ということでもある...。

鳥インフルエンザだ、口蹄疫だと拍車がかかり、
今や日本列島は消毒漬けである。
日常生活から農業、商業、医療・福祉まで、
一日に行われる消毒の量はどれくらいになるのだろう...。
そんなことを考えていたら、この「消毒」という言葉が気になった。
似たような言葉に「殺菌」「滅菌」、最近よく聞く「除菌」「抗菌」などがある。
いったいどこがどう違うのか...。
いろいろ調べてみたら、どうもこんなことらしい。
「殺菌」や「滅菌」は、すべての菌を死滅させること。
菌が病原性のものか否かに関わらずである。
それに対して「消毒」は、病原菌を死滅または除去することで、
非病原菌の残存は許されるという定義になっている。
因みに「除菌」は、濾過や洗浄によって菌を除去すること。死滅させるわけではない。
「抗菌」は最近使われ出した用語で、まだ明確な定義は確立していないという。
今のところ、「除菌」よりも緩やかなレベルと解釈されているようだ。
となると、やはりあまり神経質に殺菌だ、滅菌だというのは避けた方がいいだろう。
人体に有用な常在菌まで死滅させることになる。
医療現場などではともかく、日常生活ではせいぜい「消毒」に留めるべきだ。
...と、ここでまた考えた。
農業には付きものの「消毒」、あれは本当に「消毒」なのか...。
妻が管理している家庭菜園では、消毒など一切しないのでテントウムシが異常に多いようだ。
見ばえにこだわる消費者が多数である以上、
出荷する作物には消毒が欠かせないのも理解できる。
見ばえ以前に、消毒しなければろくに実がならないものもあるだろう。
以前、一時期だけ小梅の畑を借りたことがあるが、
まったく消毒しなかったので惨めな収穫に終わった...。
だから、農家の方を非難するつもりは全くない。
その点をご了解いただいた上で言わせてもらうが、あれは「消毒」ではないのではないか?
むしろ、そのために使用する農薬の方が「毒」であろう。
残留農薬を気にする消費者も少なくない...。
劇薬レベルの薬を散布しているのだから、あれではすべての菌を死滅させているように思われる。
ならば「殺菌」「滅菌」と呼ぶべきではないか。
実は作物にとって有用な菌まで殺している、ということもあるのではないか。
「虫が来ない」のは「虫も来ない」ということでもある...。

2010年07月19日
盆踊りにはこの曲!
7月17日、18日と、松代の町では祇園祭が行われた。
夜には目抜き通りが歩行者天国となり、夜店も出て賑わった。
塾の前の通りも車両通行止めとなったので、少し離れた銀行に駐めざるを得ない。
それはまあ我慢する。
ちょうど授業時間に当たるが、多少うるさくなるのも覚悟の上だった。
ところが、フタを開けてみたら、生徒が集中できなくなるくらいの大騒ぎ。
塾の真ん前で御輿が止まり、そこで盆踊り(だと思う...中から見てないので...)が始まった。
スピーカーから大音声で流れてくるのは、おなじみの「好きになった人」(by都はるみ)だ。
何分か続いたら、御輿が移動し始めて遠ざかっていく。
やれやれと思っていたら、そのうち戻ってきて、
また「♪チャララチャチャ、チャラチャチャ...」が始まった。
...生徒も大変だ。
考えてみたらこの曲、ずいぶん前から盆踊りに使われている。
昭和43年の曲だから、もう40年以上全国で流れていると思われる。
どこの町内会にもテープの1,2本はありそうだ。
圧倒的なシェアを誇っているに違いない。
イントロの知名度もかなり高いのではないか...。
それにしても、他に曲はないのか?
首都圏ならこれに「東京音頭」が加わる。
「炭坑節」もかなりの確率で採用されていた。
昔行った郡上八幡の盆踊りが懐かしい。
地元の民謡6曲が繰り返し演奏され、一晩中踊り明かす。
テンポの速い曲と遅いものがうまく組み合わされ、
長く踊っても疲れにくい構成になっていた。
本当はこのように、地元に古くから伝わる曲だけで踊るのが理想だが、
昨今ではそれを知っている若い世代は多くない。
そこで、誰でも知っている歌謡曲を使ったというのが始まりだろう。
それが40年も定番となっているのは驚きである。
昭和の時代なら、いくつも国民的大ヒット曲があった。
「好きになった人」以外にも、踊りやすい曲はあったはずだ。
あるいはそういう冒険もあったのかも知れないが、今に残っているものはない。
平成に入ってからは、国民的ヒット曲は皆無に等しい。
「千の風になって」はそう呼べるかも知れないが、盆踊りには向かないだろう。
氷川きよしの曲など、あってもおかしくないと思うのだが...。
「♪やだねったら、やだね」あたり、どこかで使われていそうだ。
「好きになった人」の歌詞は、どちらかと言えば暗い。
一時代前の「耐えて待つ女」がテーマの、典型的演歌だ。
この曲が盆踊り用として長らえている理由は、
テンポの良さと共に、この日陰っぽいイメージの歌詞にもあるのではないか。
盆踊りの曲は明るすぎてはいけないのである。
あのメロディーも捨てがたい魅力がある。
町内会の、かなりくたびれたテープの音はさらにいい。
胡弓の音にも似て、哀愁をかき立てられる。
まさか初めからそれを狙って作られたわけではあるまいが、
この曲は、盆踊りの曲としてふさわしい条件を満たしていたのである。
ところで、日本全国であれだけ流れている分、
著作権料はどうなっているのだろう?
初めはレコードやCDを購入していたとしても、
個人で楽しむ領域は超えているので、著作権料が発生しそうなものだが...。
各町内会が支払っているとは思えない。
そんな無粋なことは言わないで、というところだろうが、
日本中の分を合わせたらかなりの額になると思うのだが...。

夜には目抜き通りが歩行者天国となり、夜店も出て賑わった。
塾の前の通りも車両通行止めとなったので、少し離れた銀行に駐めざるを得ない。
それはまあ我慢する。
ちょうど授業時間に当たるが、多少うるさくなるのも覚悟の上だった。
ところが、フタを開けてみたら、生徒が集中できなくなるくらいの大騒ぎ。
塾の真ん前で御輿が止まり、そこで盆踊り(だと思う...中から見てないので...)が始まった。
スピーカーから大音声で流れてくるのは、おなじみの「好きになった人」(by都はるみ)だ。
何分か続いたら、御輿が移動し始めて遠ざかっていく。
やれやれと思っていたら、そのうち戻ってきて、
また「♪チャララチャチャ、チャラチャチャ...」が始まった。
...生徒も大変だ。
考えてみたらこの曲、ずいぶん前から盆踊りに使われている。
昭和43年の曲だから、もう40年以上全国で流れていると思われる。
どこの町内会にもテープの1,2本はありそうだ。
圧倒的なシェアを誇っているに違いない。
イントロの知名度もかなり高いのではないか...。
それにしても、他に曲はないのか?
首都圏ならこれに「東京音頭」が加わる。
「炭坑節」もかなりの確率で採用されていた。
昔行った郡上八幡の盆踊りが懐かしい。
地元の民謡6曲が繰り返し演奏され、一晩中踊り明かす。
テンポの速い曲と遅いものがうまく組み合わされ、
長く踊っても疲れにくい構成になっていた。
本当はこのように、地元に古くから伝わる曲だけで踊るのが理想だが、
昨今ではそれを知っている若い世代は多くない。
そこで、誰でも知っている歌謡曲を使ったというのが始まりだろう。
それが40年も定番となっているのは驚きである。
昭和の時代なら、いくつも国民的大ヒット曲があった。
「好きになった人」以外にも、踊りやすい曲はあったはずだ。
あるいはそういう冒険もあったのかも知れないが、今に残っているものはない。
平成に入ってからは、国民的ヒット曲は皆無に等しい。
「千の風になって」はそう呼べるかも知れないが、盆踊りには向かないだろう。
氷川きよしの曲など、あってもおかしくないと思うのだが...。
「♪やだねったら、やだね」あたり、どこかで使われていそうだ。
「好きになった人」の歌詞は、どちらかと言えば暗い。
一時代前の「耐えて待つ女」がテーマの、典型的演歌だ。
この曲が盆踊り用として長らえている理由は、
テンポの良さと共に、この日陰っぽいイメージの歌詞にもあるのではないか。
盆踊りの曲は明るすぎてはいけないのである。
あのメロディーも捨てがたい魅力がある。
町内会の、かなりくたびれたテープの音はさらにいい。
胡弓の音にも似て、哀愁をかき立てられる。
まさか初めからそれを狙って作られたわけではあるまいが、
この曲は、盆踊りの曲としてふさわしい条件を満たしていたのである。
ところで、日本全国であれだけ流れている分、
著作権料はどうなっているのだろう?
初めはレコードやCDを購入していたとしても、
個人で楽しむ領域は超えているので、著作権料が発生しそうなものだが...。
各町内会が支払っているとは思えない。
そんな無粋なことは言わないで、というところだろうが、
日本中の分を合わせたらかなりの額になると思うのだが...。

2010年07月18日
国語の授業は役に立っているか?
二つ運営しているうちの一つの塾で、毎月俳句や短歌を覚えさせている。
季節に合ったものを7,8個選んで月初めにリストを渡し、教室にも掲示する。
翌月の初めに穴埋め問題でチェック。
俳句は初めの5文字、短歌は上の句の5文字と下の句の7文字のみ提示されていて、残りを埋める。
みんな、苦労しながらも何とかクリアしている。
今月の俳句の一つに次の句がある。
夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる (山口誓子)
「汽缶車」という表記が時代を感じさせる。
生徒に披露する前に、作者と正確な表記を確認するために、いつもネットで検索するのだが、
今回この句を入力したら、こんなサイトにたどり着いた。
どうも、全国の学校教師が指導案などを情報交換する場であるらしい。
ちょっと興味を引かれて読んでみる。
ん?...なんだ、この予定調和的な授業は...。
「何に感動したのでしょうか。」だって?
「話者は車輪をどの位置から見ていますか。」だと...?
どうでもいいようなことを、如何にも大切なことのようにいじくり回している。
だが、我々が受けてきた国語の授業って、こんな感じだったよな...と思う。
いったい国語って何を教える教科なのか?
漢字と文法、古文や漢文は、教えることが明確なのでわかりやすい。
問題は現代文だ。
「読解」というより「鑑賞」に重きが置かれすぎているのではないかと思う。
冒頭の俳句に関しては、私のイメージは、
鄙びた終着駅の車止めの手前に自分がいて、
汽車が向こうから自分の方に寄って来て止まる感じだ。
紹介したサイトにあるような、真横から見ている絵ではない。
その辺は自由でいいのではないか?
理屈をこねればこねるほど、虚しさが募る...。
今の学校の(特に小学校の)国語の授業は、どう感じたか、どう思ったかばかりに
重点が置かれすぎている。
読解でも作文でもそうだ。
もっと言えば、どう感じるべきか、どう思うべきかに偏っている面もあるが、
まあ、それについては今回は触れないでおく。
先日亡くなった井上ひさし氏が書いたこんな本がある。
文章上達のための具体的な提言が満載の本だ。
氏は言う。
感想文なんて大人だって難しい。
どう感じたかより前に、事実を正確に伝える文章を書く練習を積むべきだとと...。
これにはまったく同感である。
塾で使っているオリジナル教材も、絵や図形、漢字、地図などを題材に、
「説明力」をつけることを重視したものだ。
漢検の不祥事のあおりを受けてなくなってしまった「文検」(日本語文章能力検定)でも、
絵を説明する問題があり、そこには「あなたが考えたことを書いてはいけません」という注釈があった。
推測で「親子が」とか「兄弟が」などと書くと減点される。
絵から客観的に判断できることのみを説明せよというものだった。
学校で十何年国語を学んだはずなのに、
書く力、話す力が確立できていない日本人が少なくない。
文科省もようやく、「言語力の育成」と称して、
論理的に考え、論理的に伝える力を育むことに重きを置き始めたが、
国語の授業のあり方が旧態依然では、その実現は極めて難しいだろう。
いっそのこと「国語」と別の教科を立ち上げた方がいいのかも知れない。
鑑賞は「国語」に任せ、
観察、描写、報告から始まり、見聞したものを正確に伝える、
誤解のないよう、しかもわかりやすく伝える練習を主とした新教科を作る。
相手の立場に立つ想像力や、自分の文章を吟味する力も養われるだろう。
説明文がやがては意見文になり、小論文になる。
ここでは自分の考えを整理する力が重要になる。
要約力を高めることも欠かせない。
今、そんな教材を少しずつ作成中である。
以前作った教材がいろいろあるのだが、単発的なものが多い。
体系的な言語力教材、まずは中学生向けのものを、今年中には完成させたいと思っている。

季節に合ったものを7,8個選んで月初めにリストを渡し、教室にも掲示する。
翌月の初めに穴埋め問題でチェック。
俳句は初めの5文字、短歌は上の句の5文字と下の句の7文字のみ提示されていて、残りを埋める。
みんな、苦労しながらも何とかクリアしている。
今月の俳句の一つに次の句がある。
夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる (山口誓子)
「汽缶車」という表記が時代を感じさせる。
生徒に披露する前に、作者と正確な表記を確認するために、いつもネットで検索するのだが、
今回この句を入力したら、こんなサイトにたどり着いた。
どうも、全国の学校教師が指導案などを情報交換する場であるらしい。
ちょっと興味を引かれて読んでみる。
ん?...なんだ、この予定調和的な授業は...。
「何に感動したのでしょうか。」だって?
「話者は車輪をどの位置から見ていますか。」だと...?
どうでもいいようなことを、如何にも大切なことのようにいじくり回している。
だが、我々が受けてきた国語の授業って、こんな感じだったよな...と思う。
いったい国語って何を教える教科なのか?
漢字と文法、古文や漢文は、教えることが明確なのでわかりやすい。
問題は現代文だ。
「読解」というより「鑑賞」に重きが置かれすぎているのではないかと思う。
冒頭の俳句に関しては、私のイメージは、
鄙びた終着駅の車止めの手前に自分がいて、
汽車が向こうから自分の方に寄って来て止まる感じだ。
紹介したサイトにあるような、真横から見ている絵ではない。
その辺は自由でいいのではないか?
理屈をこねればこねるほど、虚しさが募る...。
今の学校の(特に小学校の)国語の授業は、どう感じたか、どう思ったかばかりに
重点が置かれすぎている。
読解でも作文でもそうだ。
もっと言えば、どう感じるべきか、どう思うべきかに偏っている面もあるが、
まあ、それについては今回は触れないでおく。
先日亡くなった井上ひさし氏が書いたこんな本がある。
文章上達のための具体的な提言が満載の本だ。
氏は言う。
感想文なんて大人だって難しい。
どう感じたかより前に、事実を正確に伝える文章を書く練習を積むべきだとと...。
これにはまったく同感である。
塾で使っているオリジナル教材も、絵や図形、漢字、地図などを題材に、
「説明力」をつけることを重視したものだ。
漢検の不祥事のあおりを受けてなくなってしまった「文検」(日本語文章能力検定)でも、
絵を説明する問題があり、そこには「あなたが考えたことを書いてはいけません」という注釈があった。
推測で「親子が」とか「兄弟が」などと書くと減点される。
絵から客観的に判断できることのみを説明せよというものだった。
学校で十何年国語を学んだはずなのに、
書く力、話す力が確立できていない日本人が少なくない。
文科省もようやく、「言語力の育成」と称して、
論理的に考え、論理的に伝える力を育むことに重きを置き始めたが、
国語の授業のあり方が旧態依然では、その実現は極めて難しいだろう。
いっそのこと「国語」と別の教科を立ち上げた方がいいのかも知れない。
鑑賞は「国語」に任せ、
観察、描写、報告から始まり、見聞したものを正確に伝える、
誤解のないよう、しかもわかりやすく伝える練習を主とした新教科を作る。
相手の立場に立つ想像力や、自分の文章を吟味する力も養われるだろう。
説明文がやがては意見文になり、小論文になる。
ここでは自分の考えを整理する力が重要になる。
要約力を高めることも欠かせない。
今、そんな教材を少しずつ作成中である。
以前作った教材がいろいろあるのだが、単発的なものが多い。
体系的な言語力教材、まずは中学生向けのものを、今年中には完成させたいと思っている。

2010年07月17日
危ない、危ない...
知識としては知っていたが、「フィッシングサイト」というものの怖ろしさを初めて実感した。
「フィッシング」と言っても、もちろん楽しい釣りの情報満載のサイトではない。
こちらが釣り上げられてしまう、怖ろしい所だ。
生徒が帰ってから、塾のPCで自宅のメールをチェックしていた。
「Yahooメール」だとこの技ができるので重宝だ。
受信箱を見て、一応「迷惑メール」のフォルダも開いてみる。
たまに、重要なメールがここに振り分けられてしまうことがあるからだ。
すると「Yahoo Japan から重要なお知らせ」というタイトルが目に入った。
送信者は「Yahoo Japan customer service」となっている。
思わず開封してしまった。
内容は、オークション利用継続のために、更新手続きをしてほしいということ。
ヤフオクは結構利用している。
必要なら、面倒でも手続きしなければ...。
「更新手続きはこちら」と書かれたリンク先をクリックする。
ここで、「アクセスしようとしているページは外部のページです」という警告が出る。
ちょっと気になったが、これはよく目にする文なので続けると、
「フィッシングサイトの危険があります」というメッセージが現れた。
アドレスに「yahoo」の文字が含まれているか確認せよと言う。
確かめてみたら、案の定「yahoo」は含まれていない。
完全に詐欺サイトだ!
でも、面白いので、だまされているのを承知の上で継続する。
「Yahooプレミアム」の画面になり、登録情報を再度入力するよう求めてきた。
住所、氏名、電話番号から始まって、
暗証番号、クレジットカードの番号、そのセキュリティコードまで、
ありとあらゆる個人情報を盗み取ろうという魂胆だ。
危ない、危ない...。
危うく信用してしまうところだった。
いつもの Yahoo からのメールと体裁がそっくりで、
本物の Yahoo Japan へのリンクや、ご丁寧に宿のCMまで載っている。
いかにも...という感じなので、警告ページがなければ引っかかったかも知れない。
念のため正規の Yahoo サイトも調べたが、更新手続きの件などどこにも載っていなかった。
さっき、自宅のPCで Outlook Express から開いたときには、
昨日のような警告文は一切出なかった。
PCに入れてあるセキュリティソフトの違いなのか、
「Yahooメール」を通した方が安全なのか...。
皆さんの所にも届いていませんか?
...くれぐれもご注意を!

「フィッシング」と言っても、もちろん楽しい釣りの情報満載のサイトではない。
こちらが釣り上げられてしまう、怖ろしい所だ。
生徒が帰ってから、塾のPCで自宅のメールをチェックしていた。
「Yahooメール」だとこの技ができるので重宝だ。
受信箱を見て、一応「迷惑メール」のフォルダも開いてみる。
たまに、重要なメールがここに振り分けられてしまうことがあるからだ。
すると「Yahoo Japan から重要なお知らせ」というタイトルが目に入った。
送信者は「Yahoo Japan customer service」となっている。
思わず開封してしまった。
内容は、オークション利用継続のために、更新手続きをしてほしいということ。
ヤフオクは結構利用している。
必要なら、面倒でも手続きしなければ...。
「更新手続きはこちら」と書かれたリンク先をクリックする。
ここで、「アクセスしようとしているページは外部のページです」という警告が出る。
ちょっと気になったが、これはよく目にする文なので続けると、
「フィッシングサイトの危険があります」というメッセージが現れた。
アドレスに「yahoo」の文字が含まれているか確認せよと言う。
確かめてみたら、案の定「yahoo」は含まれていない。
完全に詐欺サイトだ!
でも、面白いので、だまされているのを承知の上で継続する。
「Yahooプレミアム」の画面になり、登録情報を再度入力するよう求めてきた。
住所、氏名、電話番号から始まって、
暗証番号、クレジットカードの番号、そのセキュリティコードまで、
ありとあらゆる個人情報を盗み取ろうという魂胆だ。
危ない、危ない...。
危うく信用してしまうところだった。
いつもの Yahoo からのメールと体裁がそっくりで、
本物の Yahoo Japan へのリンクや、ご丁寧に宿のCMまで載っている。
いかにも...という感じなので、警告ページがなければ引っかかったかも知れない。
念のため正規の Yahoo サイトも調べたが、更新手続きの件などどこにも載っていなかった。
さっき、自宅のPCで Outlook Express から開いたときには、
昨日のような警告文は一切出なかった。
PCに入れてあるセキュリティソフトの違いなのか、
「Yahooメール」を通した方が安全なのか...。
皆さんの所にも届いていませんか?
...くれぐれもご注意を!

2010年07月16日
完結編(?)・大人をなめるな!
(注)「予習」のお済みでない方は、まず以下の記事をお読み下さい。
「大人をなめるな!」
「続・大人をなめるな!」
「続々・大人をなめるな!」
木曜日がやってきた。
例の生徒にどう言おうか、念入りに作戦を立てた。
学習を始めてからでは相手のペースにはまりそうな気がしたので、
しょっぱなに勝負することにした。
その子が席に着くなり、ファイルを持って近寄って暴言満載のページを開く。
以下、Tは私、Sは生徒である。
T「今日はまず、あなたと話をしなくちゃいけない。
話をするんだからちゃんと答えてね。」
S[...」(無言でうなずく)
T(ファイルを見せて)こんなことして楽しい?」
S「...楽しくない。」
T「俺とケンカしたいの?」
S「...」(首を振る)
T「じゃあ、塾を続けたいの?辞めたいの?」
S(しばらく考えた後)「...続けたい。」
T「だったら、ここのルールに従って俺の言うことは聞いてください。
書いていいことと悪いこと、もう一度自分で考え直してね。」
S「...」(うなずく)
拍子抜けするほどあっさりと終わってしまった。
学習はいつものように進み、帰りのコメント記入も1行のみで当たり障りのない感想だった。
因みに、塾を続けたいのかという質問に「辞めたい」と答えた場合は、
こう言うつもりだった。
「そうは行かないんだよね。あなたの根性をたたき直さないといけないから...。」
昨日は自宅に戻ってから荒れただろうか...。
これで一件落着!とは思っていないが、
ひとまず良い方向に向いてきたことだけは確かなようである。

「大人をなめるな!」
「続・大人をなめるな!」
「続々・大人をなめるな!」
木曜日がやってきた。
例の生徒にどう言おうか、念入りに作戦を立てた。
学習を始めてからでは相手のペースにはまりそうな気がしたので、
しょっぱなに勝負することにした。
その子が席に着くなり、ファイルを持って近寄って暴言満載のページを開く。
以下、Tは私、Sは生徒である。
T「今日はまず、あなたと話をしなくちゃいけない。
話をするんだからちゃんと答えてね。」
S[...」(無言でうなずく)
T(ファイルを見せて)こんなことして楽しい?」
S「...楽しくない。」
T「俺とケンカしたいの?」
S「...」(首を振る)
T「じゃあ、塾を続けたいの?辞めたいの?」
S(しばらく考えた後)「...続けたい。」
T「だったら、ここのルールに従って俺の言うことは聞いてください。
書いていいことと悪いこと、もう一度自分で考え直してね。」
S「...」(うなずく)
拍子抜けするほどあっさりと終わってしまった。
学習はいつものように進み、帰りのコメント記入も1行のみで当たり障りのない感想だった。
因みに、塾を続けたいのかという質問に「辞めたい」と答えた場合は、
こう言うつもりだった。
「そうは行かないんだよね。あなたの根性をたたき直さないといけないから...。」
昨日は自宅に戻ってから荒れただろうか...。
これで一件落着!とは思っていないが、
ひとまず良い方向に向いてきたことだけは確かなようである。

2010年07月15日
ちょっと変な日本語
「SBCスペシャル」、投扇興はあっと言う間に終わっちゃったなぁ...。
昨日(誕生日)のワインが残っていて体調がよくないので、今日はかる~く済ませることにする。
最近テレビやネットなどで見聞きした「ちょっと変な日本語」集。
①サッカーW杯のニュース(web)から。
FWスアレスを出場停止で欠場したことが響いた。
「を」を「が」にするか、「欠場した」を「欠いた」にすべし。
②テレビの野球中継から。
「1点は失われましたが...」
なんだか不可抗力による失点で、チームに責任がないかのようだ。
「失いましたが」が普通であろう。
③迷惑メールのタイトル
どうか私のお話を聞いていただけますか?
「どうか」ときたら結びは「~ください」だ。
「~いただけますか」にしたいなら「どうか」は要らない。
それ以前に、自分の話に「お」を付けるな!
④定期購読しているメルマガのタイトル
問題を解決するには、問題を発見することから始まる
生徒がよく書くような文だ。
途中で主述関係がねじれている。
「~するには」を生かそうとすると、「まず問題を発見することだ」
または「問題を発見することから始めなければならない」と回りくどくなる。
「問題解決は、問題を発見することから始まる」とした方がすっきりするだろう。
以上。また貯まってきたらご紹介しま~す!

昨日(誕生日)のワインが残っていて体調がよくないので、今日はかる~く済ませることにする。
最近テレビやネットなどで見聞きした「ちょっと変な日本語」集。
①サッカーW杯のニュース(web)から。
FWスアレスを出場停止で欠場したことが響いた。
「を」を「が」にするか、「欠場した」を「欠いた」にすべし。
②テレビの野球中継から。
「1点は失われましたが...」
なんだか不可抗力による失点で、チームに責任がないかのようだ。
「失いましたが」が普通であろう。
③迷惑メールのタイトル
どうか私のお話を聞いていただけますか?
「どうか」ときたら結びは「~ください」だ。
「~いただけますか」にしたいなら「どうか」は要らない。
それ以前に、自分の話に「お」を付けるな!
④定期購読しているメルマガのタイトル
問題を解決するには、問題を発見することから始まる
生徒がよく書くような文だ。
途中で主述関係がねじれている。
「~するには」を生かそうとすると、「まず問題を発見することだ」
または「問題を発見することから始めなければならない」と回りくどくなる。
「問題解決は、問題を発見することから始まる」とした方がすっきりするだろう。
以上。また貯まってきたらご紹介しま~す!

2010年07月14日
続々・大人をなめるな!
事の成り行きをご存じない方は、
「大人をなめるな」と「続・大人をなめるな」をお読みいただきたい。
昨日、姉のお迎えに来られたお母さんにファイルを見せた。
1回分がかなり長いし、まだ授業中で別室に他の生徒もいたので、
ほとんど先々週の分だけで終わってしまった。
「母が先生の字は汚くて読めないと...」のくだりまでは行っていない。
姉の報告から、うすうす感じていたらしい。
「これはひどすぎますね」という反応だった。
なんと、家での態度とまったく同じだという。
親に対しても暴言の嵐だそうだ。
「おはよう」と声をかけると「うるせぇ!」と返ってくるのだとか...。
甘やかして育てたつもりはないと言うが、
幼い頃長期入院したことがあったそうで、
もしかしたらそのときに「女王様」になってしまったのかも知れない。
父親は何も対処していないのか...。
それでも、塾には喜んで行っていると言うのだから驚く。
今までいろいろな習い事をしても、何一つ続かなかったという子がである。
一度叱りたいと申し出た私に対し、母親は続けて言った。
親に対するのと同じ態度を取るというのは、私に対して心を開いている証ではないか...。
叱ることで、せっかく喜んで行っている塾を、辞めたいと言い出すのも...。
先生も収入のことがあるでしょうし...。(よけいなお世話だ!)
バカにしたような発言でも、無視よりは相手への関心が高いということか。
それはそれで一理ありそうな気がする。
「愛」の反意語は「憎」ではなく「無関心」という説を目にしたことがある。
母親は、私に釘を刺しているのか、はたまた脅しか...。
私は言った。
これは正直とか個性とかいう問題ではない。
大人に対する敬意というものを教えないと、中学に行ったらますます手に負えなくなる。
だから、今度来たら「叱る」のではなく「諭す」ことにする。
さて、木曜日、何から話そうか...。
私とケンカしたいのか、仲良くしたいのか?塾に来たくないのか?
...そんなことからかな...。
明日が来るのが楽しみであり、怖ろしくもある、53回目の誕生日だ。

p.s.今日の「SBCスペシャル」に登場します!
「大人をなめるな」と「続・大人をなめるな」をお読みいただきたい。
昨日、姉のお迎えに来られたお母さんにファイルを見せた。
1回分がかなり長いし、まだ授業中で別室に他の生徒もいたので、
ほとんど先々週の分だけで終わってしまった。
「母が先生の字は汚くて読めないと...」のくだりまでは行っていない。
姉の報告から、うすうす感じていたらしい。
「これはひどすぎますね」という反応だった。
なんと、家での態度とまったく同じだという。
親に対しても暴言の嵐だそうだ。
「おはよう」と声をかけると「うるせぇ!」と返ってくるのだとか...。
甘やかして育てたつもりはないと言うが、
幼い頃長期入院したことがあったそうで、
もしかしたらそのときに「女王様」になってしまったのかも知れない。
父親は何も対処していないのか...。
それでも、塾には喜んで行っていると言うのだから驚く。
今までいろいろな習い事をしても、何一つ続かなかったという子がである。
一度叱りたいと申し出た私に対し、母親は続けて言った。
親に対するのと同じ態度を取るというのは、私に対して心を開いている証ではないか...。
叱ることで、せっかく喜んで行っている塾を、辞めたいと言い出すのも...。
先生も収入のことがあるでしょうし...。(よけいなお世話だ!)
バカにしたような発言でも、無視よりは相手への関心が高いということか。
それはそれで一理ありそうな気がする。
「愛」の反意語は「憎」ではなく「無関心」という説を目にしたことがある。
母親は、私に釘を刺しているのか、はたまた脅しか...。
私は言った。
これは正直とか個性とかいう問題ではない。
大人に対する敬意というものを教えないと、中学に行ったらますます手に負えなくなる。
だから、今度来たら「叱る」のではなく「諭す」ことにする。
さて、木曜日、何から話そうか...。
私とケンカしたいのか、仲良くしたいのか?塾に来たくないのか?
...そんなことからかな...。
明日が来るのが楽しみであり、怖ろしくもある、53回目の誕生日だ。

p.s.今日の「SBCスペシャル」に登場します!
2010年07月13日
ノートは贅沢に使え
塾では、テキストや問題集に直接答えを書き込むことはさせない。
繰り返し練習できるようにするためだ。
すべてノートに答えさせる。
作図やグラフなどは、問題により直接記入も認めるが、
必要な場合はコピーしたものをノートに貼って解かせる。
大学ノートは無料支給だ。
もちろん、教科ごとに分けさせる。
いくらでも好きに使っていいと言ってあるが、
以前からのよき伝統が受け継がれ、
生徒は「ノートもらいます」と一言言って持って行く。
(余談であり自慢話だが、この辺りの躾はかなり行き届いている。
「○○借ります」「××ありがとうございました」が、ごく自然に出てくる。)
で、問題はそのノートの使い方だ。
以下、主に数学の場合について述べる。
できない子は決まってノートの使い方が悪い。
字が乱雑で、次の式に行くとき自分で写しまちがっている。
いろいろな所に式が書いてあり、どこが答えなのかわからない。
隅の方でチョコチョコ計算した跡がある...。
あるいは途中式を書かない。
よそで計算した過程をすべて消してしまう。
英語で言えば、穴埋め問題で答えの箇所だけを書いている...。
ノートに答えるときは、まず整理できていることが第一だ。
問題と途中式と解答が一目で区別できるように書く。
証明の記述なら、
「仮定より」がどこまでなのか、「よって」がどこから導かれるのか、
段落を意識して書き分けなければならない。
言い換えれば、論理的な書き方をしろということだ。
頭の中が整理できていなければ、答え方も整理できない。
逆に、少しでも整理できた答えを書こうとする心構えが、
思考を整理する手助けになるのではないかと思う。
ここで大切なのは、
「整理できている」のと、「よけいなことを書かない」のは別物だ ということだ。
書いておかなければならない「よけいなこと」もあるのだ。
途中式をどの程度まで書くかは場合によるが、
あまりにも省力しすぎて間違ってばかりいるようでは困る。
英語の穴埋め問題なら、正しい単語を補って全文を書いた方が、文の形が覚えやすいはずだ。
そこで生徒に勧めているのが、ノートを二つの部分に分ける使い方である。
見開きの左ページと右ページで分けてもいいし、
1ページを縦に二等分している子もいる。
左側に問題、最低限の途中式、解答を書く。
細かい計算をしたり、思考途中で図を書いたりするときは右側を使う。
右側の書いたものは消さずに残しておく。
左側は極力丁寧に書く。
右側は多少乱雑でも構わないが、とにかく思考の過程をすべて保存しておくことだ。
間違った場合はどこでミスしたのか確かめる必要があるし、
合っていたときも、生徒がどう考えたのかを辿ることができる。
大切なのは、どちらかのページが埋まったら、
もう片方に余白があっても気にせずに次のページに進むことだ。
極端な場合、右側を全く使う必要がないこともあるだろう。
それでも構わない。
ノートはいくらでもあげるので、贅沢に使ってほしいのだ。
それにしても、いつも思うのだが、
なぜ生徒たちは分数を1行に収めようとするのだろう?
塾で常備しているノートはA罫と呼ばれる、太い罫のものだが、
それでも分母と分子を1行に収めるのは無理がある。
小さい字になって間違いが起きやすい。
「分母と分子が2行にまたがるように書けば?」とアドバイスするだけで
計算ミスは確実に少なくできる。
ノートをチマチマ使うのは、百害あって一利なしである。

繰り返し練習できるようにするためだ。
すべてノートに答えさせる。
作図やグラフなどは、問題により直接記入も認めるが、
必要な場合はコピーしたものをノートに貼って解かせる。
大学ノートは無料支給だ。
もちろん、教科ごとに分けさせる。
いくらでも好きに使っていいと言ってあるが、
以前からのよき伝統が受け継がれ、
生徒は「ノートもらいます」と一言言って持って行く。
(余談であり自慢話だが、この辺りの躾はかなり行き届いている。
「○○借ります」「××ありがとうございました」が、ごく自然に出てくる。)
で、問題はそのノートの使い方だ。
以下、主に数学の場合について述べる。
できない子は決まってノートの使い方が悪い。
字が乱雑で、次の式に行くとき自分で写しまちがっている。
いろいろな所に式が書いてあり、どこが答えなのかわからない。
隅の方でチョコチョコ計算した跡がある...。
あるいは途中式を書かない。
よそで計算した過程をすべて消してしまう。
英語で言えば、穴埋め問題で答えの箇所だけを書いている...。
ノートに答えるときは、まず整理できていることが第一だ。
問題と途中式と解答が一目で区別できるように書く。
証明の記述なら、
「仮定より」がどこまでなのか、「よって」がどこから導かれるのか、
段落を意識して書き分けなければならない。
言い換えれば、論理的な書き方をしろということだ。
頭の中が整理できていなければ、答え方も整理できない。
逆に、少しでも整理できた答えを書こうとする心構えが、
思考を整理する手助けになるのではないかと思う。
ここで大切なのは、
「整理できている」のと、「よけいなことを書かない」のは別物だ ということだ。
書いておかなければならない「よけいなこと」もあるのだ。
途中式をどの程度まで書くかは場合によるが、
あまりにも省力しすぎて間違ってばかりいるようでは困る。
英語の穴埋め問題なら、正しい単語を補って全文を書いた方が、文の形が覚えやすいはずだ。
そこで生徒に勧めているのが、ノートを二つの部分に分ける使い方である。
見開きの左ページと右ページで分けてもいいし、
1ページを縦に二等分している子もいる。
左側に問題、最低限の途中式、解答を書く。
細かい計算をしたり、思考途中で図を書いたりするときは右側を使う。
右側の書いたものは消さずに残しておく。
左側は極力丁寧に書く。
右側は多少乱雑でも構わないが、とにかく思考の過程をすべて保存しておくことだ。
間違った場合はどこでミスしたのか確かめる必要があるし、
合っていたときも、生徒がどう考えたのかを辿ることができる。
大切なのは、どちらかのページが埋まったら、
もう片方に余白があっても気にせずに次のページに進むことだ。
極端な場合、右側を全く使う必要がないこともあるだろう。
それでも構わない。
ノートはいくらでもあげるので、贅沢に使ってほしいのだ。
それにしても、いつも思うのだが、
なぜ生徒たちは分数を1行に収めようとするのだろう?
塾で常備しているノートはA罫と呼ばれる、太い罫のものだが、
それでも分母と分子を1行に収めるのは無理がある。
小さい字になって間違いが起きやすい。
「分母と分子が2行にまたがるように書けば?」とアドバイスするだけで
計算ミスは確実に少なくできる。
ノートをチマチマ使うのは、百害あって一利なしである。

2010年07月12日
他山の石
先日の記事で「他山の石」という言葉を使った。
一般的に知られているであろう、こういう意味のつもりである。
「自分の人格を磨くのに役立つ材料。参考にすべき、他人のよくない言行。」(大辞林)
「よその山から出た石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の言行。」(大辞泉)
ところがこの言葉、詳しく調べてみると、どうも微妙にニュアンスが違うようだ。
語源は中国の「詩経」に登場する「他山の石以て玉を攻むべし」である。
「よその山から出る粗悪な石も、玉を磨くときに役立つ」という意味だ。
「粗悪な石」なのだから善い言行には使えないはずだ。
そのあたり、「大辞泉」の定義は曖昧すぎないか...。
ただ、単に粗悪という以上に、
「自分の方が優れている」という「上から目線」の意識が垣間見える定義もある。
「ほかのつまらない出来事や他人のくだらない批評でも、
自分の品性・知徳をむがく助けになるということ。」(旺文社国語辞典)
「自分より劣っている人の言行などを、自分の参考にする。」(広辞苑)
こうなると、なんだか鼻持ちならない表現ということにならないか...。
私としては、自分への戒めという意味で使ったつもりである。
「パル教育システム」さん、ごめんなさい...。
さらにユニークなのがこんな解釈。
さすがの「新解さん」である。
「〔よその山から出た石であって初めて、玉をみがくのに役立つものだ、の意〕
見てくれが良くなくとも、そのものの大成には欠くことのできない好材料。
〔俗に、模範の意に解するのは誤り〕」(新明解国語辞典)
今までの定義は全て「誤り」だと断言している。
自分の山から出た石ではダメなのだ。
他の山から出た石が欠かせないのだ。
「好材料」と言っているように、かなりのプラス評価である。
「可愛い子には旅をさせよ」的なニュアンスが感じ取れる。
こうなると、私の使い方も相手に少しは敬意を表したものになるか...。
もっとも、「欠くことのできない」とまでは言えない。
ん?...やっぱりバカにしているのかな...。
一般的に知られているであろう、こういう意味のつもりである。
「自分の人格を磨くのに役立つ材料。参考にすべき、他人のよくない言行。」(大辞林)
「よその山から出た石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の言行。」(大辞泉)
ところがこの言葉、詳しく調べてみると、どうも微妙にニュアンスが違うようだ。
語源は中国の「詩経」に登場する「他山の石以て玉を攻むべし」である。
「よその山から出る粗悪な石も、玉を磨くときに役立つ」という意味だ。
「粗悪な石」なのだから善い言行には使えないはずだ。
そのあたり、「大辞泉」の定義は曖昧すぎないか...。
ただ、単に粗悪という以上に、
「自分の方が優れている」という「上から目線」の意識が垣間見える定義もある。
「ほかのつまらない出来事や他人のくだらない批評でも、
自分の品性・知徳をむがく助けになるということ。」(旺文社国語辞典)
「自分より劣っている人の言行などを、自分の参考にする。」(広辞苑)
こうなると、なんだか鼻持ちならない表現ということにならないか...。
私としては、自分への戒めという意味で使ったつもりである。
「パル教育システム」さん、ごめんなさい...。
さらにユニークなのがこんな解釈。
さすがの「新解さん」である。
「〔よその山から出た石であって初めて、玉をみがくのに役立つものだ、の意〕
見てくれが良くなくとも、そのものの大成には欠くことのできない好材料。
〔俗に、模範の意に解するのは誤り〕」(新明解国語辞典)
今までの定義は全て「誤り」だと断言している。
自分の山から出た石ではダメなのだ。
他の山から出た石が欠かせないのだ。
「好材料」と言っているように、かなりのプラス評価である。
「可愛い子には旅をさせよ」的なニュアンスが感じ取れる。
こうなると、私の使い方も相手に少しは敬意を表したものになるか...。
もっとも、「欠くことのできない」とまでは言えない。
ん?...やっぱりバカにしているのかな...。
